●● AIR ●●
彼は、その身長190センチの視界から自分の足下の地球を見下ろす。
そして、自分の頭上を見上げる。
彼の頬を、初秋の風がやわらかく撫で上げ、その風は更に木の葉を揺らし、複雑な音程の心地よい音を鳴らす。揺れた木の枝から小鳥がさえずりながら飛び立つ。
彼はそれらの音を耳にしながら、空に浮かぶ薄い雲を見上げる。
夏のそれと違い、ほうきで掃いたような薄い雲。
低い層の雲の更に一段上空には、レンズのような形をしている雲も見える。
おそらく上空では風が強いのだろう。
揺れる木の葉や鳥のさえずりを包み含むこのやわらかな大気が、彼の足下の地球を取り巻いている。彼を含めた、あまたの生き物をまるく優しく包み込み、守っている。
遠くから聞こえるのは、昼休みにふざけ合っている男子生徒や女子生徒の声、水道から滴る水の音、サロンから流れる音楽。
彼の耳に入り込むどの音をも、彼は愛していた。
自分の背がもっと高ければいいのに、と彼は思う。
そうすれば、この音や空気がどんな色をしているのか上空から全てを見渡すことができる。そして、そこに淋しい辛い色がないか見つけることもできる。
色を、彼は思い浮かべた。
どんな色が、この地球を取り巻いていたらいいだろう。
彼の心には、その幸せの色のイメージがある。
けれど、上手く表すことができない。
なんと言ったらいいだろう。
高い空を見上げながら、その空気の色について考えていたら、不意に彼の名を呼ぶ声が地上から聞こえて来た。
「何やってんの、樺地くん」
その声で、彼は上空を見上げるために後傾していた首を、約90度地球にむけた。
視線の先にいたのは、この地球の住人、もう少し細かく言えば彼と同じクラスの隣の席である、だった。
「もうすぐお昼休み終わっちゃうよ」
は、彼が手にしている購買部のパンが入った袋をちらりと見ながら言う。
そう、彼は外でパンを食べようと出て来て、そのまま空を見上げているうちにいつしか時間が経っていたのだ。
「……ウス」
そういった一連の事情をどう説明したものか、と思いながら、彼は一言いつもの口癖をつぶやいた。
彼が空を見上げながら思い描いていた、彼の夢見る大気の色を、一体どう説明したらいいだろうか。
少しの間、は彼から言葉が出るのを待っていたが、彼女と一緒に連れ立っている友人達から、『もう行こうよ』という雰囲気が流れる。
「考え事、してた?」
はそう言うと笑って、彼に手を振って友人達と校舎の方へ歩いていく。
はいい色をしていた。
幸せな色だ。
彼の目は、勿論人の姿形を映し出す。
が、彼はそれらの情報よりも、その人を取り巻く空気の色を感じることが多かった。
声の調子、話し方、表情の動き、しぐさ、その人のあらゆるものが醸し出す空気、その色。
の色を、彼は好ましいと思っていた。
それは一体どんな、何色なのか?
さきほどの、地球をとりまく大気のイメージと同じように、上手く言葉で説明はできないけれど。
校庭の木陰のベンチでパンを食べてから校舎に戻ると、彼が教室に入るとすれ違いにが飛び出して来た。
「樺地くん、次は体育だから早く更衣室に行かないと遅れちゃうよ?」
はジャージが入ったショルダーバッグを振り回してみせる。
午後の授業の時間までにはまだ時間はあり、が本気で彼の遅刻を懸念しているわけではないということを、彼は了解していた。
「今日、バスケじゃんね? この前樺地くんが教えてくれたコツで、シュート頑張ってみるわ。じゃーね!」
そう言ったは、先ほどと同じ面子の女子生徒達と更衣室へ向かった。
彼女の空気の余韻をまといながら、彼は自分の着替えを持って男子更衣室へ足を運ぶ。
そういえば、先週の体育の授業の後、と話したのだった。
はさして運動は得意ではないが、背が高い。だから、体育のバスケットの時にはシュートをまかされることが多いらしいのだが、どうにも外してばかりで気まずいなどと言っていた。
彼はテニス部であって、バスケットはさほど詳しくはないが、他人の動きを解析して理解するということには長けていた。故に、バスケットでのシュートのコツを常識程度に説明することは彼にとって難しいことではなかった。
今日、がシュートを決めるといい。
がシュートを決めた時のことを想像すると、彼は幸せな気持ちになった。
そんな事を考えながら更衣室に入って着替えをしようとすると、肘の辺りに人とぶつかる感触。
「ウ……ウス……」
とっさに体を引いて、謝罪の言葉を発した。
「だよ、ッゼーな、このデクノボー!」
彼の近くで着替えていたクラスメイトが、舌打ちをしながら睨みつける。
睨みつけるといっても、大概の男子生徒より長身の彼に対しては見上げる形になるのだが。
「やめとけよ三好。こいつ結構女子に人気あっから、つっついてんのがバレると女どもがうっせーぞ」
傍らにいた友人らしきクラスメイトが小声で言う。
「構わねーよ、人気あるっていっても、どうせ跡部先輩のパシリだからって、それだけのことでだろ。バカな女ども、こいつの機嫌とっときゃ跡部先輩とお近づきになれっかもなんて思ってんだよ」
いらだった声で続けていた。
「まあまあ落ち着けって。珍獣かわいがるみてーなモンだって」
その友人は乾いた声を上げて笑う。
彼が着替えをしているすぐ後ろで、彼らは会話を続けていた。
こういう言葉を投げかけられることは、珍しいことではない。
幼い頃より、同級生たちと比べ抜きん出て巨躯であった彼は、時に畏怖の、時に好奇のまなざしをむけられ、時には嘲笑の対象にもなった。
彼は、自分にそういった色を向けられる意味を理解していた。
今、彼の傍らで彼を笑いあざける二人は、そうしなければ処理できない何らかの気持ちを抱えているのだ。それを、理解する。
だったら、思うように彼を笑うといい。
彼は、決して鈍感ではないしそういったことを気にしないわけではない。
心に痛く刻みつける。
彼が痛むことで、前へ進める者がいるなら、それでいいのだ。
彼はそれを引き受ける。
着替えをすませて体育館へ行くと、始業の前に数人の生徒がコートにボールを持ち出していた。
先ほど更衣室で会った二人も、コートに視線を向けている。
がシュートの練習をしていた。
彼が教えた、足の幅、肘の角度、立ち位置……。
ボールはの手から離れ弧を描き、けれどボードに跳ね返され床に落ちた。残念そうなの顔。
彼女は運動や勉強が得意なタイプではないが、華やかで美しい女子生徒で、男子生徒からも女子生徒からも好かれている。
以前彼が放課後に廊下でと立ち話をしているところを見た部活の三年生から、『さっき話しとったの、やんな。えらいべっぴんさんと仲良しなんやな、樺地』などと冷やかされたりしたこともあって、それで彼女の一般的評価が伺い知れた。
今日、更衣室で会った二人の態度も、きっと彼女のことがあってかもしれない。彼はそう察していた。
彼がに話しかけられることで、誰かが彼に痛みを与えざるを得ない気持ちになるのなら、仕方がないことなのだ。
そう、考える。
ぱさり。
静かな音とともに、ボールの弾む音。
「やったー!」
の声。
美しい弧を描いたボールは、ようやくゴールのリングを通り抜け、ネットを落ちる瞬間に静かな音を立てて体育館の床に落ちたのだ。
「あっ、樺地くん! 今の見た? 入った入った!」
は彼の姿を見つけると、大きく口をあけて笑いながらこれまた大きく手を振るのだった。
そう、この色。
彼女の空気の、この色がいい。
「もう、ばっちりだと思ったんだよねー」
体育の授業の後、HRの盛り上がらない議題の間にがため息をつく。
「私、バスケ部にでも入ろうかななんて思うくらいだったんだけど、いざ試合形式になるとシュート決まらないもんだねー。だって、皆じゃましてくんだもん」
今日の体育の時間のゲームのことを振り返って、は何度も腕を上げてシュートのフォームを作ってみせる。
「でもさー、練習でも、ああやってシュート入ると気持ちいー! 樺地くんもテニスでサーブが決まると、爽快!って感じなの?」
そうだ、と答えるとは満足そうに笑った。
秋になり、席替えがあってから初めて隣の席になったはよくしゃべる女子生徒だった。
長身である彼はほぼ毎回教室の一番後ろの席であり、今回も例外にもれずだ。後ろの席というのは教師の目が届きにくいと思っているは授業中やHRの間でも、よく彼に話しかけて教師に注意される。後ろの席というのは、意外に目の届きやすいものなのだ、と彼が説明してもはそのことを学習する様子はなかった。
「おい、! HR中だぞ、静かにしてろ! 樺地に迷惑かけるな!」
身振り手振りを交えて賑やかに話す彼女に、案の定教師の叱責が飛んだ。
ハーイ、と一瞬静かに前を見るが、ほんの数秒後、または彼の方に体を向ける。
「それにしても樺地くん、テニス部なのにさ、バスケのフォームとかにも詳しいしすごいよね。どうしてそんなになんでもできるの?」
彼は、二年生でありながらテニス部の正レギュラーの座を勝ち取って戦い続けていた。彼が得意とする戦い方は、対戦相手の技をコピーする方法だった。
一見自分というものがなく、相手の動きをなぞるだけに思われがちな彼の戦い方だが、自身では気に入っている戦い方だ。
彼はその両の眼で目の前の人間を見つめる。
何を考え、何をめざし、どう動くのか。
その色を感じる。
そして自分もその色を感じながら、動く。
そうやって、対戦相手とのつながりを感じながら戦っていると、自分も相手も一つの竜巻になって天に駆け上っていくような熱い気持ちになれる。
そういう彼には、テニス以外のスポーツでも、試合などを見ていてある程度のフォームやコツをつかむことなどたやすい。
彼はゆっくり時間をかけて、そういったことをに説明する。
彼は多弁な方ではない。
なぜなら、自分が思っていることを上手く言葉にすることが苦手だからだ。
そして、元来誠実な質である彼は、それをきちんと伝えようとするととても時間がかかる。
彼が言葉を見つけるまで待ち続ける者は、そう多くはない。
はその少数派だった。
「へー、なるほどねー。運動部って、ただただ反復練習してど根性って感じなのかと思ったら、なかなか繊細なんだ。っていうか、そもそも樺地くんは繊細な方だと思うけど。それにしても、樺地くんみたいな運動選手って珍しいんじゃない? なんか、ガツガツしてないっていうかさー」
自分のようなタイプの選手が珍しいのかどうか、それは自分ではわからない、と彼は言った。
そりゃそうか、とは椅子にもたれかかった。
そして眼を閉じて、思い出すように上半身でシュートのフォームを取ってみせる。
また、に教師の怒号が飛んだ。
9月も末頃になると、教室での彼の周囲は女子生徒で騒がしい。
なぜなら、10月の頭に跡部景吾の誕生日がやってくるからだ。
『跡部先輩って、今は彼女いるの?』
『跡部先輩はどんなプレゼントを喜ぶと思う?』
『跡部先輩の好きな食べ物って何? 甘いものは食べるかな?』
などの質問が幾度も彼に浴びせかけられる。
跡部景吾という人物は、一学年上の彼の幼なじみでテニス部の部長、かつ家は有名な資産家であり典型的なセレブリティだ。
が、彼のイメージの中の『跡部景吾』とは、そんな表現で説明できるものではない。
彼にとって『跡部景吾』は太陽だった。
幼き頃、跡部景吾に初めて会った時の気持ちを、彼はまだ覚えている。
覚えているというよりも、その肉体に、脳に、昨日のことのように蘇る。
出会った時の悦びが。
跡部景吾が放つ光と空気の色を、彼はこの上なく好ましいと思った。
必死に後を追う幼い彼を、跡部景吾は振り返っては待っていてくれた。
彼の言葉を待ち、時には彼が見つけるより先に彼の言いたい言葉を理解し、共に歩いてくれた。
彼は跡部景吾が好きだった。
だから、周囲の女子生徒が跡部景吾を好きだという気持ちはよくわかる。
その気持ちを伝えたいという熱に、なんとか力になりたいと思う。
女子生徒の問いかけの一つ一つに、彼は一生懸命に可能な範囲で答えていた。
そんな休み時間の過ごし方が、この季節の常だった。
「あんなの、テキトーにあしらっとけばいいのに」
始業のベルとともにようやく女子生徒達が去った後、が軽く眉間にしわをよせて彼に言った。
跡部景吾の誕生日に向けて、対策を問うてくる女子生徒たちのことを言っているのだ。
彼の机の上にはいくつかの封書がある。
誕生日に先がけて手紙を渡したいという女子生徒が、いつも数人いるのだ。
この時期に限らず、跡部宛の手紙を預かることは彼の日常ではあるのだが。
「だって、いちいち相手にしてたら、樺地くんがいつもやってる授業の予習とか、できないじゃん。つーか、私、物理の課題やってないからこの休み時間に樺地くんに教えてもらおうと思ってたのに、できなかったじゃん!」
はいらいらしたように机を叩いた。
彼は慌てて自分の物理のノートを出す。
「あ、ごめんごめん、いいの、別に樺地くんのノート目当てってわけじゃないんだしさ。あ、でも当てられたら教えてよね」
は笑いながらノートを押し返した。
確かに、課題をやっていないことなどさして気にしない彼女ではあったが。
「それにしてもさ」
は彼のノートと一緒に身を乗り出した。
「例えばああやって、跡部先輩、跡部先輩って言って来る子の中にね、樺地くんの好きな子がいたりしたら、どうするの?」
の問うた言葉の意味を、内容を、考えた。
彼には今、別段、恋をしている相手はいなかったが、いたと仮定をして考えてみた。
自分が好きだと思う相手が、跡部景吾を好きだったら。
彼の胸の中は、初めて跡部と会った時のような暖かさに満ちた。
自分は跡部景吾が好きだから、自分が好ましく思う者も跡部景吾を好きならば、それはこの上なく嬉しい。
彼はにそう返答した。
「なに、それー!」
は頓狂な声を上げる。
「! 静かにしろ! 授業、始まってるぞ!」
すでに教壇に立っていた物理の教師が怒鳴る。
は肩をすくめ、それでも懲りずに小声で話を続けた。
「そんなの、ムカつかない? 俺に話しかけて来たと思ったら跡部先輩目当てかよ、とかさ」
彼が首を横に振ると、はため息をつく。
「あ、でもそういうとこが樺地くんのいいトコかもね。もしそういうことがあったらさ、跡部先輩なんてやめて俺にしなよみたいに話してたら、きっと上手くいったりするんじゃない? 樺地くん、優しいし面倒見いいし。その程度にはガツガツしなよね」
彼はまた首を横に振った。
「なんで!?」
彼女は眼を丸くする。
が言ったようにして、人の気持ちを不必要に揺らすようなことを、彼は自分がすべきではないと思った。
彼女にそう伝えた。
「そう来るの!?」
再度大きなため息とともに声を上げる彼女を、物理教師が指名した。
「やばっ、当たっちゃった!」
彼が差し出すノートをつかんで、はあわてて前へ出た。
放課後、たいてい彼がまず向かうのは三年生の跡部景吾の教室だ。
生徒会の役員でもある彼は、部活のことのみならず多くの場面で跡部と行動を共にする。
その、彼の教室に向かう途中のことだ。
なじみ深い空気が彼の背後から近づいて来た。
振り返らずとも、声を聞かずともわかる。
「樺地くん!」
だった。
「これ、忘れてたよ」
紙袋を持ち上げて見せた。
今日預かった、跡部への手紙を入れた紙バッグを、机の横にぶらさげたまま忘れていたのだ。
「どーでもいーって思うけど、樺地くんが渡すの忘れてたってなったら、女子がうるさいでしょ」
はそんなことを言いながら、紙袋をがさがさと振って見せた。
彼は、自分がすっかりそれを持ち帰ることを忘れていたことに少々慌て、ぺこぺこと頭をさげて礼を言った。
「あ、別にいーって。ついでだし。ほら、物理の授業の時、私、課題当てられた後も先生からしつこく目をつけられてたじゃん。そんで、課題のノート借りたお礼もちゃんと言えなかったから、気になってたし」
はぶんぶんと頭を振って見せて、紙袋を振り回した。
こう見ていると、手紙の入った袋は本当にどうでもいいようだ。
「これ、結構入ってるね。びっくりしちゃった」
紙袋を掲げながらは言う。
「跡部先輩って、ほんと人気あるんだね」
そのことについては、彼は完全に同意する。
「ウス」
迷いなくそう言うと、はくくくと笑った。
「そっか。樺地くんってほんと、跡部先輩好きだね。私は、跡部先輩より樺地くんの方がいいって思うけど。結構好きだよ」
好きだよ。
その言葉は心地よかった。
彼もを好きだった。そして、そのまま言葉にした。
「……あっ、そう、ありがと、えーと……」
は眼を丸くして彼を見上げると珍しく少々言葉に淀んで、しばし紙袋を握り締めてから深呼吸をした。
「ま、とにかく! せいぜい、これをちゃんと跡部先輩に渡しとくようにね! あと、今日の物理の授業の時はホントありがと!」
その、彼女にとっては『どーでもいー』紙袋を彼にぎゅっと押し付けた。
「じゃーね!」
彼に紙袋を押し付けて走り去っていこうとするの脇を、これまた彼のなじみの空気がやってきた。
「樺地、遅かったな。何をしていた」
跡部景吾だった。
彼の傍らで、が少々緊張する気配を感じる。
「あ、じゃ、私、行くね。また明日!」
彼女はそれだけ言うと廊下を走って去っていった。
跡部がそんな彼女に一瞥くれていたかどうか、彼にはわからなかった。
彼が携える紙袋の内容を跡部は早々に察し、そちらにちらりと視線を落とす。
「まったく仕方ないな」
跡部はそんな一言を言うだけであった。
跡部の性格であれば、そんなものを受け取ってくるななどと言ってもおかしくはないだろう。が、跡部は、彼が跡部を慕う女子生徒たちから預かる手紙や品々を、とても断れないであろうことを知っていた。ゆえに、あえて彼を責めるような言葉は一切口にしなかった。
彼は言葉をつむぐことに時間がかかる。
が、跡部景吾はそんな彼の言葉を、ほとんど発せられる前に正しく察することができていた。
彼は、跡部と共有する時間が、心から好きだった。
「あれさ、あのまま渡したの?」
翌日、朝に教室の自分の席にいると始業ぎりぎりにやってきたが彼に尋ねてきた。
クラスの女子たちから預かった跡部への手紙のことだ。
そうだ、と彼は答える。
「で、あの人、どういうリアクションなわけ?」
彼は少し考えてから、答える。
「ありがとう、と」
彼の言葉を聞いて、は『マジでー?』と疑わしげな口調で言う。
「絶対にウゼーッって思ってそうだけどなあ」
彼女の言葉に、彼は首を縦にも横にも振らずにいた。
「ま、近くで見ると確かにかっこいい人だよね。でも、やっぱなんだかエラソーにしてるし、私はちょっと苦手。でも、樺地くんはあの人好きなんだよねー」
の言葉に、彼はまた迷いなく首を縦に振った。
は軽く笑った。
「今は、跡部先輩の誕生日前ってことでみんな沸いてるけど、樺地くんの誕生日っていつなの? こんだけ跡部先輩の誕生日で働いてるんだったら、樺地くんも一緒に祝ってもらわないと割に合わないよね」
彼の誕生日は1月3日だ。その日付を彼女に伝えた。
「あっ、正月の三が日なんだ」
そう、だからクラスメイトに祝ってもらったという記憶はない。
「休み中かー、クラスでわいわいやりにくい日程だよね。うーん……」
は少し考えるように目を泳がせて、手のひらを握ったり開いたり繰り返した。
「あ、だったら、年賀状にさ、お誕生日おめでとうって書いて出すわ。ちょっとフライングになるけど。樺地くんの住所、教えてくれる?」
そう言って差し出されたの手帳に、彼は丁寧に自分の家の郵便番号と住所を書き記した。
そして、手帳を閉じてに返す。
それを手にした後、は少々不満げに彼を見上げていた。
「私には出してくれないの?」
彼女の住所を尋ねるべきかどうか、彼は逡巡していたところだった。
そもそもクラスメイトの住所は、名簿で一目瞭然だ。
だから、彼はの住所は名簿を見ればすぐにわかることなのだ。そして、もなにも今彼に尋ねなくとも、住所はわかるはずだった。
それでも、年賀状というものを出すにあたってこれがひとつの「儀式」であると彼にはわかったし、この儀式を自分もすべきなのかどうか、その点に彼は逡巡したのだった。
が、の一言で、彼はあわてて自分の薄い手帳を差し出した。
フン、と鼻を鳴らしてはその手帳に自分の住所を書きつける。
「ハイ」
彼女が突きつけてきた手帳を丁寧に受け取り、年賀状を出す旨を彼はに伝えた。
「それだけ?」
その一言は、彼の心に残っていたもうひとつのひっかかりを遠慮なく抉った。
彼は手帳を仕舞いながら、あたふたと慌てる。
「こういう流れだったら、私の誕生日も聞いてよねー」
は仕方ないなというように、笑いながらひらひらと手を振ってみせる。
「ま、樺地くんはそういうの、さらっと聞くほうじゃないと思うけど。私の誕生日ね、12月25日」
「あ、クリスマス……」
彼はとっさにそれだけつぶやいた。そして、今度は即座に言葉をつなげる。
クリスマスカードにHappy Birthdayと書いて出す、ということを。
彼のその言葉を聞いて、は満足そうに笑う。
「うん、楽しみにしてる」
彼女をつつむ空気は、なんとも幸せな色と匂いだった。彼は、その空気の中に自分もいて、そしてその色の構成に自分の何かも含まれているような気がした。
そういう気持ちは、とても幸せだった。
手帳をバッグにしまった彼女は、いつも一緒に行動する仲の良いクラスメイトたちの席へ行き、歓談の輪に加わった。
彼の手帳に残る、の字。女子にしては大きく筆圧の高いしっかりとした文字だった。彼は指でそっとその文字に触れる。
ほんのり暖かい気がした。
夏の全国大会も終った今は、実質三年生は引退の状態だ。が、次年度に向けての体制作りのために、跡部をはじめとする三年生たちはいまだ積極的に部に顔を出していた。関係性によっては、そういったことは疎ましく思うこともあるだろうが、この氷帝学園のテニス部ではそのような支援体制は全員が心強くありがたく感じていた。
この日、彼がいつものように部室に足を運ぶと、三年の忍足侑士がすでにやって来ていた。
「よ、樺地、おつかれさん。そういえば昨日は跡部も来とったな、あいつ、引退したちゅうのに熱心やのぉ」
彼と顔を合わせた忍足がとぼけた調子で言う。
そういう忍足も、熱心にやってきているではないかと思いながらも、彼は言葉にすることはなかった。
「そうそう、そういえばな、樺地」
自分の個人用ロッカーを開けた忍足は、そのまま振り返って彼を見た。
「自分のクラスに、っておるやろ。ホラ、いつぞや廊下で話しとった美人さん」
「ウス」
彼はうなずきながら言った。
「昨日、跡部がその子んことを長太郎や日吉に聞いとったで。あいつ、興味持ったんかいな? 樺地は何か聞いとるか?」
忍足は興味津々というていで尋ねて来る。
今度は彼は首を横に振った。
「さよか」
忍足は残念そうに軽く息をつく。
「ま、なんやおもろそうな話あったら、教えてや」
そう言って、いたずらっぽく笑いながら彼の背中をポンポンと二回たたいた。
それに対し、彼は首を縦にも横にも振らない。
彼は、跡部景吾の隣にが立つところを想像してみた。
彼が好きな空気と色がふたつ。
それが混じり合ったら、どんなに素晴らしいだろうか。
ふんわりと暖かい気持ちになる。
同時に。
にクリスマスカードを出すと告げた時の、彼女のあの笑顔、あの空気、あの色。
あの空気の色は、彼女が跡部と並んで歩けば、また違う色に変わるのだろうかと思うと、少し淋しい気がした。
そういった自分の気持ちをどう扱ったらいいものか、彼にはわからなかった。
昼休み、彼はカフェテリアに向かった。この日は跡部と昼食をとる予定であった。
カフェテリアに入る前に、背後から背中をポンとたたかれた。
それがであることを、彼は振り返らずともわかっていた。
が、彼はあえて振り返ってから驚いた顔をしてみせる。
そうするとは満足そうに笑った。
「樺地くん、今日はカフェでお昼?」
彼女はいつものクラスの仲間たちと連れ立ってきているところであった。
「ウス」
「私たちもね、ほらランチのデザートの新作、『ジュレロワイヤル』目当てで今日はカフェなんだ。よかったら樺地くんも一緒に食べない?」
彼女の言葉に、一緒にいた友人たちは少々驚いたような顔をする。
彼はの誘いに対し、今日は跡部と約束がある旨を伝え丁重に断った。
「あ、そっか跡部先輩とお昼か、やっぱ仲いいねー」
は口をとがらせてみせて、からかうように笑った。
「じゃあ今度、跡部先輩と約束のない時にたまにはお昼一緒に食べようよ。カフェじゃなくてもいいし、パン買って外でとかさ。天気のいい日に」
彼は、秋晴れの空の下、木陰でとパンをかじることを想像した。
その風の感触、木の葉や土の匂いまでが感じられるようだった。
「……ウス」
彼は力強くうなずく。
その時だった。
「樺地」
彼の名を呼ぶ声。
の友人の女子生徒たちが一瞬で色めきたつ。
跡部景吾だ。
跡部は樺地に声をかけた後、じっとを見た。
「……あんた」
そして、に声をかける。
「ちょっと話がしたい。いいか?」
穏やかな表情のままに言った。
の周囲の女子生徒は目を丸くして声も出ない。
は一瞬眉間にしわをよせる。
「……これから食事なんです」
は小さな声で言った。
「時間は取らせない」
跡部は顎をくいと持ち上げて、この場から少し離れようというしぐさをした。
は戸惑ったように跡部を見て、その後に、じっと傍で立ち尽くす彼を見上げた。何らかの反応を待つように。
「……あの、樺地くん……」
そして彼の名を呼ぶ。
「樺地、お前は先に入っていつもの席で待ってろ。俺の分も注文しておけ」
「……ウス」
彼は跡部の言うとおりその場から離れた。
の空気の感触が遠くなる。
が不安な気持ちでいることはわかった。それでも彼は、跡部が彼女を不安がらせるような、そんなことなどをしないと知っていた。
彼女に悪いことがおこるはずがない。
だから彼は振り返らず、そのままカフェテリアに入っていった。
昼休みが終わり、教室の自分の席に座っていると隣の席に静かな気配。
が戻ってきたのだ。
彼女の様子を伺おうと顔を覗き込むが、は彼を見ようとしなかった。
ひどく違和感を感じた。
はいつも、なんやかんやと彼に話しかける。彼が上手く返事ができなくても話しかけるし、場合によってはじっと返事をするまでゆっくりと楽しそうに待つ。
そんなことが常だったから。
彼はしばし考えて、新作のデザートの感想を求めてみた。
はちらりと彼を見るが、不機嫌そうに返事をせず黙ったまま。
彼はそれ以上何も聞けない。
その日はそれ以来、結局一言も口をきくことはなかった。
翌日、彼は部の朝練を終えて教室に行くが隣の席は空いたままだった。
彼女は遅刻ぎりぎりのことも多いから、さして珍しいことではない。
彼は昨日のことを思い返した。
カフェテリアで跡部に連れられていく時の彼女の表情。
その件が、その後がまったく彼と口をきかなくなったことになんらか関係をしているだろうことは想像ができた。
かといって、何かあったのかと跡部に尋ねてかまわないのかどうか、彼には判断がつきかねた。
昨日の午後、彼女の色は寂しかった。
空気が満ちていなかった。
息苦しかった。
彼は美しい空気を肺に満たしたかった。
自身に尋ねてみようか。
そう思いながら、彼女が登校してくるのを待つが、始業のベルが鳴っても彼女の姿は現れなかった。
昼休みのことである。
『事故で……』『……入院して……』
そんな言葉が断片的に彼の耳に入る。
はっとして振り返ると、の友人たちが話していた。
彼は立ち上がって、ぎょっと驚く彼女たちの間に身を乗り出す。
そして、ほんの数秒後だろうか。
彼は教室を飛び出していた。
は昨日の下校時に交通事故にあい、大きな怪我ではないが入院をしているらしい。
の友人たちから病院の名前だけを聞き出すと、彼はそのまま校舎を出て校庭を駆け抜けた。鉛色の空がその重みをどんどん増し、雲の切れ端のような水滴が落ち始めているが彼は気にしない。
と、ポケットの携帯電話が鳴る。
彼の携帯を鳴らす人物は一人だけだ。
立ち止まり、ポケットからそれを取り出し通話ボタンを押す。
『樺地、どうした?』
跡部の声だった。
彼が走っていたあたりは、ちょうど跡部の教室から見える。彼の姿が目に入ったのだろう。
「………………」
彼は息をはずませながら、それだけを言った。
『……ああ、そうか。わかった、西門へ行け。車をまわすよう手配する』
跡部は即座に合点がいったというように言って、すぐに電話を切った。
彼は踵を返し、西門へ向かって走る。
なぜ、どうして、なにを、どうする。
彼と跡部の間にそういった会話は必要なかった。
互いにすべてをわかっているからだ。
あっという間に雲の切れ端は本格的な雨となり、彼の体を打つ。
西門にたどり着いた時には、彼はもうびしょぬれだった。
「どうぞ、これを」
彼が西門を出ると同時に、そこには大型のセダンが静かに到着し、中から出てきたスーツの初老の男性が大きなバスタオルと傘を差出した。その男性は、跡部を送り迎えする際に同行していることが多く、彼も顔見知りだった。
「お乗りください」
後部座席のドアを開け、彼がずぶぬれの自分の姿を気にするまもなく中に導かれ、そして車は静かに発進する。
運転手と、初老の男性と、三人の車内では誰も何も言わない。
が、車は迷わず都内を走り抜ける。
彼がクラスメイトから耳にした病院のロータリーにつけると、初老の男性がすいとドアを開けてくれる。
「西6階病棟、602号室でございます」
静かにそれだけを言う。
「ウス……」
彼は深々と頭を下げ礼を言って、そして足早に院内へ入っていった。
エレベーターを待つことももどかしく、階段で6階へ駆け上がる。
602号室。
目当ての部屋はすぐに見つかった。
とネームプレートがかかっている。
扉の前で、彼は何度も深呼吸をした。
ここまで来てようやく、果たしてこれが自分のすべきことだったのかどうか、考える。
こんな自分の行動は、彼女にとってどうなのだろうか。
けれど。
彼が、こうしたかった。
大きな怪我ではないと、皆が言う。
の無事を、彼はなんとしても自分の目で確かめたかった。
何度目かの深呼吸をしてから、彼はゆっくり扉をノックする。
中からは、入室を促す声。
聞き覚えのある声で、彼はまずほっとする。
扉を開けると、そこにはベッドで半身起こした、驚いた顔の。
「樺地くん!」
昨日の午後にまったく口をきかなかったことなど嘘のように、大声で彼の名を呼んだ。
「どうしたの!」
の声はまったく元気そうだった。
彼はゆっくり歩み寄って、じっと彼女を見た。
「……よかった……」
それだけを言うと、ぺこりと頭を下げてに背を向け部屋を出て行こうとした。
「ちょっと! ちょっと待ってよ樺地くん、まさかもう帰っちゃうの? 来たばっかりじゃない! 帰らないでよ、もうちょっとここにいてよ!」
怒ったようにまくし立てる彼女を振り返り、彼はもう一度歩み寄った。
「……ほら、そこに椅子あるでしょ、座って。……ずぶぬれじゃん。そこのタオルも使って」
ベッドの上から指示をする。
彼はの言葉に従った。
「……たいしたことないのって、言ってあるはずなんだけどなあ。先生とか友達とかにはさあ」
ははずかしそうに布団の上に出した手を、握ったり開いたりする。
「昨日、帰りがけに横断歩道渡ってたら、右折する車に当たっちゃって。足、ちょこっとヒビはいってるのと、軽く頭打ってるから2〜3日入院しとけってことになってね、それだけなの」
彼はうなずきながらの話を聞いた。
「……樺地くん、心配して来てくれたの?」
じっと彼を見て言う。
「ウス」
彼は即座にうなずいた。
「授業あるのに?」
「ウス」
「……お見舞い、一番のりだよ」
はそう言うと嬉しそうに笑った。
「昨日……ごめん」
そして、気まずそうにうつむく。
「……ウス……」
彼女の態度には、きっと自分も何かが悪かったのだろうと彼は思っていたから、なんと返答していいのかわからなかった。
「私、自分勝手で思い込みが強いから」
はゆっくりと続ける。
「昨日……あんな風に樺地くんもいる前で、急に跡部先輩に来いなんて言われて、びっくりして不安で。『助けて』って気持ちで樺地くんの方見たのに、樺地くんは知らん顔でカフェに行っちゃうじゃん。どーして助けてくんないのって、ちょっとムカついちゃったんだよね」
照れくさそうに笑った。
をそんな気持ちにさせたのなら、やはり自分が悪いのだと思う。
彼は素直に謝罪の言葉を発した。
「いや、そんな樺地くんが謝らなくていいんだけど……」
はしばし逡巡し、彼の顔を見上げた。
「それより、昨日の跡部先輩の話が何だったのか、気にならない?」
じっと彼を見上げる彼女を取り巻く空気は、いつしか彼の好きなそれだった。
色、温度、匂い、感触。
それは地球を取り巻く大気のように、彼の周りにある。
黙っているままの彼を気にする様子もなく、は軽くため息をついて続けた。
「あの時、時間はとらせないって跡部先輩が言ったとおり、ほんと用件ズバリだったよ。『俺様目当てだったら、樺地にしつこく近づくのはやめろ』だって」
言って、思い出したようにクククと笑う。
「樺地くんは、どんな人にどんな風に近づかれてもひとつひとつ真面目に応じるからって」
彼は黙ったまま、じっとの話に耳を傾けた。
「だからね、私、言ったの。跡部先輩は自意識過剰すぎるって。私は跡部先輩のことはイケメンだとは思うけど、さして興味はないし、樺地くんのことが好きなだけなんだって。だから樺地くんの前で、誤解されるようなことしないでくださいって」
ゆっくりと真剣な顔で言う。
「そしたらね、跡部先輩は大声で笑って、『お前は頭は良くなさそうだが、悪い奴じゃねーな』だって。失礼しちゃうよね」
昨日のランチの時、跡部が上機嫌だったことを思い出す。
あの時の跡部は、ずいぶんと嬉しそうな笑顔でいた。
「ねえ、樺地くん、聞いてる?」
「ウス」
は前髪をかきあげてため息をつく。
「本当に聞いてるの? 私、樺地くんが好きだって言ったんだけど」
「ウス」
彼は何度も何度も首を縦に振る。
そんな彼を見て、は照れくさそうに苦笑いをする。
「……樺地くんてさ、『皆で楽しくやろう!』ってなったら、その『皆』に自分は含めないでしょ。皆が幸せで楽しかったらいいなーって感じで。だけど、私はそれじゃ寂しいよ。その『皆』に、ちゃんと樺地くんもカウントして、樺地くん自身も楽しくてハッピーじゃないと。だから、ちゃんと傍にいて」
「ウス」
また、何度も首を縦に振った。
「私のこと、好き?」
「ウス」
は笑いながら布団をぽんぽんと叩く。
「来年もクリスマスにカードくれる? 誕生日祝いに」
「ウス」
「その次の年も、次の次の年も?」
ずっと一緒にいる、と彼は言った。
照れくさそうに何度も布団を叩くの手の上に、彼は自分の手をのせた。
地球の周りを大気がつつんでいるように。
彼は、美しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
(了)
2009.12.24
