モクジ

● 雨雲レーダー  ●

 ねずみ色の重たそうな雲の奥、西の方で見事な稲妻が光る。
 その光に続いて、地響きがするような雷の音。
「……大丈夫か!」
 雷が鳴るたび、海堂くんはびくんと姿勢を正して、そして眉をぎりっと吊り上げ、私を睨みつけるようにしてドスの聞いた叫ぶ。
 彼の口元は、少しひきつっている。
「あ、うん……」
 私は、彼が声を上げるたび、戸惑いながら頷くのだった。


 ここは、都内の図書館の軒下。
 学校帰り、運悪くゲリラ豪雨に遭遇したので、緊急避難したところ。
 休館日だから、中に入って待つことはできず、恨めしく空を見上げていたら、そこに海堂くんが走りこんできたのだ。
 彼は、2年生になって同じクラスになったけど、一度も話したことはない。
 だって、めちゃくちゃ怖そうなんだもの。
 そんな彼も、雷は苦手なようで、さっきから空を睨みつけて、そして手にはバンダナを握り締めている。
 彼が部活動でテニスをしているとき、頭にバンダナを巻いているのを見たことがあるから、いつも携えているのだろう。今はそのバンダナをタオル代わりに使っていた。
 何気なくそのバンダナを見ていると、
「……使うか」
 と、彼はバッグからもう一枚、きちんと折りたたまれたバンダナを取り出してくれる。
「えっ? あ、いい、いい、大丈夫よ」
 ちゃんと、予備も持ってるんだ。海堂くん、おっかないけど几帳面そうだからなあ。
 と思いながら、私はあわてて彼の申し出を丁重に断った。
 私が断ったバンダナを彼がバッグに仕舞おうとすると、また雷が鳴った。
 さっきよりかなり近い。
 隣で海堂くんが、びくんとして、そして私を見る。
「大丈夫かっ!」
 彼の整った眉は、ややいつもより吊り上がって眉間と鼻のところにしわがよって、普段よりおっかなさ3割り増しといった表情。
 けど、さっきから私はうすうす感じていたのだけれど……。
 海堂くんは、雷が苦手なのではないだろうか、もしかして……。

 厚い黒い雲に覆われて、時間帯の割りに暗くなってしまった私たちの足元を、稲妻が照らした。
 音が鳴る前に、海堂くんがまたびくりと肩を震わせるのが見えた。
 次の瞬間に、大地を引き裂くような音がする。
 近くに落ちたのだろうか?

「大丈夫かっ!」

 海堂くんは隣で絶叫した。
 雨足が少し弱くなる。
「……うん、ありがとう、大丈夫。ほら、建物は避雷針があるから、大丈夫よ。海堂くんが一緒だから、心強いし。ここにいたら、雷が落ちてくることはないから、大丈夫、ありがとう、海堂くん」
 私は、避雷針、をちょっと強調してみた。
 彼の眉間のしわが少し緩くなった。
「ああ、避雷針! そうだ、た、建物が安心だ!」
「ね、ここなら、大きな木も近くにはないから、大丈夫」
「そうだ、木の近くは危ないからな!」
 雨足が弱まるたびに、海堂くんの声がよく響くようになる。
 海堂くんは、クラスではおしゃべりなほうじゃないから、こんなに近くでこんなに沢山彼の声を聞くのって、初めてかも。
 結構、いい声。
 次に響いた雷は遠くて、海堂くんも表情を変えることはなかった。
 彼は空を見上げる。
「……やっぱり、これを貸してやる」
 もう一度、バンダナを取り出した。
「これを頭にかぶって行け。今なら、雨も弱まった」
 彼は私の頭にふわりとバンダナを載せると、走り出そうとした。
「ちょ、海堂くん、待って待って!」
 私はあわてて彼のバッグを抑える。
 彼は振り返って、私をにらみつけた。
「ね、ほら、これ、見て」
 私は携帯の画面を開いてみせる。
「あ?」
 彼は怪訝そうにそれを覗き込んだ。
「ほら、雨雲レーダー。赤いドットのとこが、一番雨がひどいとこ。今から30分後の予想動画を見ると、ほら、すっかり雨雲はどっかいっちゃてるでしょ? あと少しだけ待てば、雨も雷も遠ざかるから」
 私が差し出したお天気サイトの画面を見て、彼はバッグを肩にかけなおす。
「……そうか、そうだな……」
 ふしゅう、と息をもらした。
 眉は相変わらず吊り上がってるけど、まあ、これは地顔の範囲内かな?
 雷が遠のいて、雨の音も小さくなってくると、今度は私が急に緊張してきた。
 だって、ほんと、海堂くんと話すの、この雨宿りが初めて。
 バンダナを断ったり、彼が果敢に雨の中に攻めていくのを止めたりして、海堂くんは怒ってないかしら。
「……なあ、オイ」
「はいっ!」
 今度は私がびくんと飛び上がる番。
「……雨、とかに詳しいのか?」
 彼の低い声は、こうやって雨の中で聞くと意外に優しい。
「え? あ、えーと、私、オリエンテーリング部でお天気担当だから、詳しいってわけじゃないけど、天気図とかは見るよ。今のは、フツーのお天気サイト」
 私がもう一度携帯を出して見せると、彼も携帯を出して「ふーん」とつぶやいてサイトを登録した。
 携帯画面に集中する海堂くん。
 濡れた髪が、頬骨や額に少しはりついてる。笑ったところなんて見た事がないけど、思ったほど怖くない。
 怖くないっていうか、思ったより、わかりやすい?
 と、携帯から顔を上げた彼と目が合ってしまった。
「……あ?」
「あっ、雨!」
 私は慌てて、空を指差した。
「雨、上がったけど」
 言うと、海堂くんは、いつのまにか明るくなった空を見上げた。
 そして、次に私を見る。
「……もう、大丈夫だと思うか?」
 私は雨雲レーダーの画面を更新して、リアルタイムの画像を見せた。
 さっきまでの赤や黄色のドットはすっかりクリア。
「ほら、もう大丈夫。帰れるよ」
 私が言うと、彼はほっとしたように額の髪をかきあげた。
 行くぞ、と私を促す。
 私は、海堂くんが頭に載せてくれたバンダナを手に取った。
 濡れた髪の水分で湿ってる。
「これ、ありがとう。洗って返すね」
 そう言って、バンダナをスカートのポケットに仕舞った。
「……助かった」
「え?」
「……おかげで、濡れて走らずにすんで、助かった」
 海堂くんは、歩きながらぼそっと言う。けれど、それはしっかりと聞き取れた。
「うん、まあ、ここまで来るのに、濡れちゃってるけどね、お互い」
 私が言うと、彼は、チと舌を鳴らした。
 ポケットの中のバンダナが、なんだか暖かい。
 空がすっかり晴れ上がって、太陽が照って、お洗濯したバンダナが乾いたら。
 また、海堂くんと話せる。
 そのための、チケットだね。
 ぽんぽん、とポケットをたたいた。

fin

2012.5.15


モクジ
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