●● さいごのわがまま ●●
彼と知り合ったのは、去年の初夏の頃のこと。
私が四天宝寺中の3年生だった時。
5月の連休明けくらいだったかな。
そんな時期って、ふわふわして落ち着かないじゃない。いろんな花がわーっと咲いて暖かくなって、そんで次は緑が押し寄せてきて。気温は急に上がるし、薄着になるし、なんかこう、テンションは上がりっぱなし。
そんな季節、私は恋で思い悩んでいた。
私は恋をすると、すっかりバカになっちゃう方なんだけど、その当時もそうで、朝っぱらからいろいろと思い悩みながら登校したのだった。
恋の悩みって、不思議なもの。
秘密なことが多いけど、なぜか人に聞いてもらいたい。じゃあ友達に話すかというと、ちょっと私はそういうタイプじゃないもので、なんだかこう抱え込みながら歩いていたら、校門にさしかかるところでお坊さんが立っているのに気づいた。
奈良・京都にでもいそうな、托鉢みたいなことしてるお坊さん。黒装束に傘をかぶり、鉢を持って静かに立っている。
私はそのお坊さんの前で立ち止まった。
背が高く身体の大きなそのお坊さんは、低い静かな声でお経を唱えていた。気づかずに通り過ぎたら、きっと何も耳に入って来ないだろうけど、立ち止まると不思議によく通る声。そして、いつまでも聞いていたくなるような、そんな声だった。
「あんな、お坊さん、ちょお聞いてくれへん?」
私はちょうど教会の懺悔の部屋にでもいるような気持ちになって、そのお坊さんに話しかけてみた。
彼は淡々とお経を唱えているので、なんだか私は安心してそのまま話し続ける。
「あんな、うちな、ちょっと前からつきあい始めた彼がおんねんけど、年上でな、めっさ大人やねん。て言うても、大学1年生やけど。去年、うちが中2で彼が高3の時、同じ系列の塾やってん」
という感じで、私が彼に憧れて付き合い始めるまでの馴れ初めなどを一方的に話し出した。お坊さんは当然淡々とお経を唱えているだけで、何も話しはしないんだけど、私はだんだんと不思議に落ち着いて、そして話に興が乗ってくる。
「でな、3月くらいから付き合い始めてんけどな、彼、大学生になったやんか。もう、女のカゲがありありやねん! そりゃそうやんなあ、大学生の大人っぽい女の子が周りにはいっぱいやねんからさー。うちも、同級生の中やったらわりかしオトナに見える方やけど、そりゃ大学生にはかなわへんもん。で、こないだの日曜、彼とのデートすっぽかされてんけどな、そん時、彼がマクドで派手目な女といちゃいちゃしてんのばっちり見てもーてん。めっさムカつくやろー。当然、言うたったわけやんか。けど、サークルの同期でとかどーとか言いよんねん。で、今度、部屋に来いやとか言うねん」
一気にまくし立てて、私は大きく深呼吸をした。
ここら辺から、悩みどころ。
「……今まで、彼の部屋とか行ったことないねんけど、この流れで行ったら、もう絶対エッチなことになると思うんやんか。でも、断ったら、もう終わりな気もすんねん。部屋に来いって言われるってことは、彼もまだうちのコト好きなんやろなとも思うし、もう、うちどないしよかなーってずっと思ってなー……。ハァー」
托鉢中のお坊さんがこんな話を聞かされても困るだろうけど、なんだか話しているうちにすっきりしてくるのが不思議。お坊さんが唱えるお経の、低い声のヒーリング効果だろうか。
「答えは……」
お経が中断され、お坊さんの静かな声がひびいた。
お坊さんの足元をずっと見ながら話していた私は、ふと顔を上げる。
「答えは、おぬしの心のうちにある。しっかりと、自身の心をみつめよ」
傘の陰から覗いた顔は、がっしりした顎。細い目がうっすらと開いているけど、意外と睫毛がきれいで、整った目元をしていた。
キャニスターとかにコーヒー豆を入れる時、途中でトントンってすると豆の位置が整って、もう満杯かもと思っても、まだまだ入りそうにすっきりするじゃない。
ちょっと、そんな感じの気持ちになった。トントンと気持ちが整理されていく。
お坊さんの静かな声に、澄んだ目。
私の心のうち。
お坊さんの顔を傘の下から見上げて、私は多分、かなりニカーッとさわやかな顔で笑ってたと思う。
「……うん、そうやな。わかった! よぉ考えたら、答えはひとつやわ。 『アンタの部屋なんか行くか、アホー!』って言うたるわ! ってか、今メールするわ!」
私はバッグから携帯を出して、すばやく彼にメールをした。内容は、宣言したとおり。
「ありがとうな、お坊さん! あ、托鉢中やんな、ええと……」
私は携帯をしまって、お財布を取り出した。小銭でええんかなー。
と、それを制止するように彼の大きな手がかざされる。
見上げると傘をくいと持ち上げた彼の顔は、さっきまでの凛とした表情と違って、困ったような、きまりのわるそうな。
「……まことに申し訳ない。ワシは、托鉢中の僧ではないんや……」
私はきょとんとして、彼を見上げるばかり。
「ワシは、この四天宝寺中の生徒なんや……」
えー!
私は絶叫して、言葉を失った。
どういうこと? ええ?
私、ホンモノのお坊さんと思って、めちゃくちゃ個人的な告白をしてもーたやないのー!
顔がカーッと熱くなっていくのが分かる。
「ま……まぎらわしすぎるやん、もう、どないしてくれんねん!」
とにかく恥ずかしすぎて、何が何だかわからなくて、私はその場を全速力でダッシュして、校舎に向かうのだった。
教室で自分の席についても、なんだか妙な動悸と憤りがおさまらない。
いや、私、どこまであの人に話したっけ? 確か、目の前で彼にメールとかしたよね。
あー、友達にも話してない彼のことなのに、ぜんぜん知らない人にぶちまけちゃうなんて!
一人で悶絶してると、おはよーと友達が挨拶してくる。
「おはよー、。なんや、朝からテニス部の子と話しとったねー」
「は?」
私は彼女の言うことに心当たりがなくて、わけがわからない。
「ほら、門のとこでお坊さんのカッコして立っとる子。テニス部の2年生の。石田銀、とか言うたかな」
「えっ、あれ、テニス部なん? えっ、2年?」
私はもう、何に驚いたらいいのかわからない。
「ツカミの正門で、ああしてツッコミ待ちみたいやねんけど、テニス部の子らってみんなお笑いのレベル結構高いやん。なかなかツッコミいれてもらわれへんみたいやで。、ツッコんだったん?」
彼女はくすくす笑いながら話すのだ。
「え? あ、いや、まあね」
ホンモノっぽすぎて、誰もツッコまれへんて! ていうか、私、思い切りボケ殺しやったんか! それは、私もちょと悪いことしてもーた!
ため息をついて、椅子の背にもたれた。
なんや、あの子も私も、この四天宝寺中のお笑い教育の犠牲者ってわけやな。
くそー、ま、しゃーない。あの子だったら、私が今日話したこと、人にべらべら話したりしないだろうし、忘れるしかない。
しかし、あれで年下ねえ。
石田銀か。
あんなベテランの修行僧みたいな2年生がいたなんて、知らなかった。
その日はそういう衝撃的なことがあったものだから、私は自分の携帯にいくつも新着メールが来ていることに気づいたのは、下校間際になってからだった。
意外なことに、くだんの彼から。
私は「部屋には行かない」という、暗にさよならをほのめかしたメールをしたから、もうこれで自然消滅だろうと思ったのだけど、彼からは何通も「話し合おうや」みたいなメールが来てたのだ。
怒りやなんかが振り切ったところ、朝にああやってぶちまけたものだから、私はすっかり彼にさめてしまって、「うっとーしーなー、もー」と思いつつメールを読み進めていると、最後のメールには「学校に迎えに行くから」とか書いてあるではないか。
えー!
あわてて帰り支度をして、そうっと校門のところを見ると、まじで彼が立っていた。
「うそ、大学生って暇なんやな!」
思わずつぶやきながら、校舎の方へ引き返す。
裏門から出るしかない。
それにしても、「押してだめなら引いてみろ」ってこういうこと? つれなくなると、急に惜しくなるみたいな。私、そういったテクニックを使う方じゃないから、こういうのぜんぜんありがたくないな。
面倒なことになってしまった。
四天宝寺華月の前を通って、2号館の方に向かっているとテニスコートに向かう大きな影とぶつかりそうになった。
「……っ!」
見上げる角度に覚えがある、そしてその顎、目。
「あー、朝の……!」
托鉢僧ならぬ、2年生の石田……銀、だっけ。
私と目が合うと、彼はぎゅっと眉間にしわをよせ、姿勢を正す。改めて見ると、背、たかっ!
さっと両手をそろえ、拝むようにして目を閉じた。
「今朝は、まことにすまなんだ。おぬしが話したことは、この銀の胸にしまっておくゆえ……」
その瞬間、私はふと名案を思いつき、彼のそろえた両手をがしっと掴む。
「すまなんだって思うんやったら、協力してほしいことがあんねんけど!」
「正門のところやな」
お坊さん……じゃなくて、銀さんは朝の黒装束の格好をして、私と一緒に正門に向かってくれる。朝と違うのは、托鉢用の鉢じゃなくて、なんか金属で出来た重そうな杖みたいなものを持ってること。錫杖、とか言うらしい。
私の名案というのは、つまりこの太っとい腕をした山のようないかつい男の子に、あの彼を追い払ってもらおうということ。
状況を話すと、銀さんは「承知した」と言って、この格好になってくれた。
正門を出る前に、私たちは足を止める。
銀さんは黙って私に、まず行け、とその杖で門の外をさした。
私がなんでもないように一人で正門を出ると、歩道で待ってた彼が駆け寄ってくる。
「! メールの返事ないしやなー、心配したやんかー」
冷めた気持ちになって改めてみると、彼はほんと、チャラい!
大学生になって、更にチャラくなった!
ってか、私はチャラい年上が好きだから、仕方ないんだけど!
「返事も何も、行かへん言うたやん。いつも一緒におる女の人呼んだらええやろ」
もうとっくに部屋に呼んどるんやろうけどな、って言葉は胸にしまった。
冷めた女の子に何を言っても無駄なんだってことは、彼はまだわからないらしい。帰ってよ、と言う私と押し問答が続く。だめだ、こりゃ。
その時、ジャラン、という金属音が私の背後で響いた。
例の杖をものものしく振り回しながら、銀さんの登場だ。
これは、すごい迫力!
驚いた顔で私の背後を見上げる彼の表情が、ものすごいアホ面で、私は思わず笑ってしまう。
「哀れやな」
今回の銀さんの声は、低いだけじゃなくて地面が揺れるくらいのどっしりした声。
「おぬしは、もう終わっとる。この女に近づくでない」
「え? ……お前、一体何やねん? 関係ないやろ? え? 四天に坊さんなんかおったか?」
彼は、助けを求めるように私の顔を見る。
銀さんが錫杖を持った右手を高く持ち上げると、袖がまくれあがってそのものすごい筋肉で覆われた太い腕があらわになる。彼は一見してわかるくらい、びくんと飛び上がった。
彼の前に掲げた、錫杖を持ってない方の左手には、黄色い硬球のテニスボールが握られている。
「むんっ!」
銀さんが、呼吸一息、それをぎゅっと握り締めるとパァンと音を立てて、テニスボールが弾けた。
「ひゃっ」
これには私もびっくりで、思わず声を上げてしまった。
「……こうなりたくなかったら、この女に二度と近づくな」
銀さんが全てを言い終わる前に、彼は走って行ってしまったことは言うまでもない。
彼の後姿を見送りながら、私はこみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。
「銀さん、すごいやん! ありがとうな!」
思わず、ばーんと銀さんの背中をたたく。
「……朝の詫びや」
「うん、これでチャラやね。でも、うちの方こそ、ボケ殺しでごめんな。ツッコミ待ちやって、知らんかってん」
私が言うと、彼の顔が少し赤くなった。
派手な出来事だったけど、ネタだらけの四天宝寺中ではたいして目立ちはしない、私たちのちょっとした出会い。
私は、このことがあってから、妙に銀さんと仲良くなった。
そう、いつのまにかこのひとつ年下の後輩を、私はすごく自然に「銀さん」って呼んでた。
最初に会った時に、私は自分のちょっと恥ずかしい恋の話なんかをぶちまけてしまったからか、それ以来何かと銀さんにはいろいろ話をしたり相談をすることが多くなった。
っていうかね、銀さんは、意外に話しやすい。
多分、最初の出来事がなければ、彼をそう思うこともなかったかもしれないけど、銀さんにいろいろ話をして、彼が何を言うわけでもなく聞いてもらってると、落ち着くの。
あの彼の出来事があった後も、私はまったく学習しなくて、相変わらず「年上のチャラいダメくさい男」が好きで、そういう男を好きになってはすったもんだして、という話を銀さんに聞いてもらうわけ。
私は、友達は沢山いるけれど、女友達にこういう話をあまりしない。
だってさ、「アホか、そんな男やめときや」って言われるのわかってるし。
銀さんは、そういうことは言わないのね。そんな男はだめだとか、やめとけとか、くだらないとか、そういうことは決して言わない。黙ってじっと聞いてくれて、そして私の気持ちを整理させてくれる。銀さんに話してると、ふうっと冷静になって、私の「チャラいダメくさい男」との恋は大概デートを1〜2回したところで、クールダウンするのだ。ま、それがいいのか悪いのかわかんないけど。だって、私の恋は一向に進展しないってことだからね!
そんな銀さんは、般若心経が読めてテニスが強いってだけじゃなく、なにかと器用なところもあって、私は自転車がパンクするといっつもテニス部まで行ってた。
「なあなあ、白石くん! 銀さん知らん?」
銀さんと同級生のイケメン白石くんに尋ねると、彼は甘い笑顔を浮かべ、謎の包帯を巻いた手をひらひらと掲げてみせる。
「ああ、サン。銀さんなら、滝に打たれてから部活くるよって、もうすぐ現れると思うわ」
彼がそう言ったと同時に、テニス部の部室からユニフォームに着替えを済ませた銀さんが出てきた。
「あっ、ちょうどよかった、銀さん! また自転車パンクしてん!」
「そうか、ワシがなおしちゃる。ちょいと待ちなはれ」
いつもどおり、快くパンク修理キットを出してきてくれた。
「なあなあ、テニス部の2年生ってほんまイケメン多いなあ。白石くんとか、めっさモテるやろ」
チューブをバケツの水に入れて、パンクの箇所を調べている銀さんのつるつるの頭をみつめながら言う。
「そうやな、白石は人気やな」
「イケメンでチャラそうに見えるけど、しっかりしとるし、周りの人への気遣いもできる子やしなあ」
私が言うと、銀さんはふと顔を上げてくくと笑った。
「はんは、男のシュミは悪いが、男を見る目はあるんやな」
銀さんの言葉に、私はふいを突かれてしまう。
「……銀さん、ひどいこと言うなー! 言い返せへんけど!」
彼の広い背中を、いつもみたいにバンバンたたいて、つい笑い出してしまった。
銀さん、意外に鋭いこと言うやんか!
そんな感じで、私の中学生活最後の年は、なんでもかんでも銀さんに話し、頼み、ちょっと不思議な楽しい時間を過ごした。
そして今の私、高校生になったらなったで、またテンション上がる上がる!
私はなんだかんだ言って、ちょっと大人の仲間入りするみたいな世界が好きだから。周りがどんどん大人びていくことに、胸が熱くなる。高校に入学したばかりの時期の、嵐のような春が過ぎ、初夏になってくると私も落ち着いてきて、日常のペースになってきた。
そうすると、なんだか変な感じなのだ。
高校では友達もできた。勉強も、まあまあ。部活も、「うぇ部」なんていうネットをいじるだけのお遊びクラブで楽しくできそう。
なのに、なんだか物足りない理由は、わかってはいる。
こう、その日あった面白かったことやくだらないことや、学校で見かけたカッコイイ男の子のことを話す相手の、銀さんが同じ学校じゃないから。
そりゃ、私は四天を卒業したから、当たり前なんだけどさ。
銀さんはメールとかちょこちょこする方じゃないし。
そういうわけなので、私はお姉ちゃんからもらった「ドーナツ&コーヒーセット」のタダ券を握り締めて、学校帰りに自転車をとばした。家とは反対方向の、四天宝寺の方へ。
「銀さーん! 銀さん、おらん?」
ずうずうしく校内へ自転車を乗り入れ、テニスコートのあたりで声をかけると、3年生になって更にイケメンっぷりに磨きをかけた白石くんが私に気づいて来てくれた。ほんと、この子って、いろいろ周りに目はしを利かせてるよね。
「おうサン久しぶり、またキレイになったんちゃうん。高校はどない?」
「白石くんこそ、あいかわらずウマイこと言うなー。高校は楽しいで。ほで、銀さんは?」
白石くんはくすっと笑って、部室の方を指す。
「もう着替えて出てくる。ちょうど、部活も終わったとこや」
白石くんから昨今の四天テニス部の活躍っぷりを聞いているうちに、ようやく銀さん登場。銀さんは、私を見てちょっと驚いたように目を丸くした。
そういえば、卒業してから会うのは初めてで、つまり高校の制服で会うのも初めてだったかも。
「久しぶり! テニス部、全国大会も狙えそうな感じなんやって? すごいやん」
「……ああそうや。はんは、どうした? また自転車がパンクしはったんか?」
彼はいつもの落ち着いた物腰で、淡々と言う。
「違う違う、久しぶりやし、ちょと話そうやー!」
銀さんの背中をばんばんと叩いた。
もともとがっしりと鋼鉄のような銀さんの背中は、以前より更に筋肉がついたような感じ。そういえば、背もまた高くなった気がする。
私は自転車を押して銀さんと歩き、ドーナツショップまで行く。
普段、銀さんは倹約家な感じで、どっか寄ってくとかはあまりしない雰囲気だし、「うち、先輩やし、おごったるし!」と言ってもいい顔をしないから、こういうタダ券ならいいかなと思って誘ってみた。いつも学校で立ち話ばっかりだったから、銀さんがこういうの好きかどうかわからなかったけど、ドーナツ選んで外のテーブルに座った時の彼の表情は意外とふんわりしていて、ほっとした。なんだ、別に外でお茶するのとか、嫌いじゃないんだ。
夕方の外テーブルは、ほんのりと地面から夏の匂いがして気持ちがよかった。
さて、腰を落ち着けた私は、もうしゃべるしゃべる。
銀さんに会ったら、これ話そってことが沢山たまってたから、もうしゃべるしゃべる。
自分でも、どうして銀さんに話したいのかわからない。
銀さんは口数多いほうじゃないし、リアクションも派手じゃない。
静かに聞いてくれるだけなんだけど、話してると落ち着く。
いい加減な相槌を打ったりしないからなのかも。
最近、ふと思った。
銀さんは、言葉は少ないけど、きちんと本当に思ったことしか言わない。
大事なことしか言わない。
適当にこっちに合わせた言葉を言わない。
きっと、そういうのがいいんだよね。
ひとしきり話して、コーヒーもおかわりしまくって、ドーナツもう一個くらい食べようかなどうしようかなと思ってる頃。
「……はん、高校生になって目にかなう男はおらんのか。今日はなかなかそういう話が、出えへんな」
銀さんは穏やかな表情でコーヒーを飲みながら、そう言った。
そういえば、今日は私、いつもよく銀さんに相談してた「チャラいダメ男への恋」の話をしてなかった。だって、高校生になってからまだそういう恋に落ちてないんだもの。
っていうか、銀さん、私のそういう話、楽しみだったの?
私、そういう相談がないと、銀さんと話してたらだめ?
私はちょっと考えて、苦もなく作り話をしてみた。
もちろん、銀さんに作り話をするなんて、初めてのこと。
「そうやなー、ちょっとええ感じの人がおってな、『うぇ部』のOBやねん。新歓にも来てて、ええ感じにチャラくてかっこええし仲良くなってな、今度、徹夜でモンハンやろうやって誘われてん。この前デートして手ぇつないだことあるし、夜通しモンハンいうたら、こう遂に『来るで!』と思うやんねー、ヤバいわー」
こんな感じの、私のダメ恋話(今回は作り話だけど)を銀さんに聞いてもらうのも久しぶりで、やっぱり楽しいなーって気持ちでいると、ガタンとテーブルがゆれる。
幸いコーヒーは飲み終わっていて、こぼれることはなかったけど、私は驚いて目の前の立ち上がった銀さんを見た。
「はん、ちょっと待っててくれるか」
「え? あ、うん」
私が目を丸くしていると、銀さんは早足で商店街に消えていった。数分後、彼は息も切らさず、走って戻ってきた。
私の目の前に紙袋を置く。
「え? なに?」
「その時のために、持っておきなはれ」
「は?」
紙袋の中を見ると、なんと!
それは、その、いわゆる避妊具だった。
私は声も出ずに驚いた顔で銀さんを見上げた。
「ワシがはんに手助けしてやれることは、もう、これくらいしかない」
なんぞ、それー!
意外な展開に私は言葉もなく、銀さんは淡々とコーヒーを飲むばかり。
家に帰って、銀さんがくれた紙袋の中をおそるおそる見る。
見間違いじゃない。
まぎれもなく、あれだ。
実物をまじまじと見るのは初めてで、私はまるでいけないものでも手にしてる気がしてしまう。外のパッケージを見るだけで中身を開ける勇気はなくて、また紙袋に戻してテープを貼った。
紙袋は、商店街のドラッグストアのもので、銀さん、あんなとこであんな時間に堂々と買ってきたわけ、これ。
銀さん、どうしちゃったの、何考えてるの!
っていうか。
私は、はっとした。
銀さんと初めて話をするようになって、ちょうど1年くらい。
出会いがああだったからっていうのもあるけど、私、今までものすごく銀さんにいろんな話をしたり、いろんな頼みごとをする一方、銀さんがどう思ってるのかって、考えたことがなかった。
だって、銀さんはいつも黙って話を聞いてくれて、私を落ち着かせてくれて、私は不安になることなんかなかった。
そう、時には私、「便秘気味なんやけど、どうしたらええと思う」なんて相談までしたことがあった。我に返ると、女子としてどうかと思うけど、そんなこと考えもしなかった(ちなみにその時、銀さんは「白石は、青汁がええと言うてる」と教えてくれたけど)。
銀さんは、いつもくだらない話をしたり、面倒な頼みごとをする私に、ついに愛想をつかしたのだろうか。これを携えて、せいぜい自分の身を守って高校生活を送れと。
私はガサガサとその紙袋を手に持ったり、机の奥にしまったり、カバンの中にしまったり、もう一度取り出してみたり、とにかく落ち着かない。
今まで、男の子を好きになっておたおたしても、こんな不安な落ち着かない気持ちになったことはなかった。
こういう時どうしたらいいんだろう。
いつもこういう時は、ずっと銀さんに話を聞いてもらってたんだけど。
そんな事があった、数日後。
学校帰り、私の自転車がパンクした。
私は迷わず自転車を押して、自転車屋さんをいくつも通り過ぎて、四天宝寺中まで時間をかけて歩いた。
当然のようにテニスコートまで来ると、ちょうど顧問のオサムちゃんが通りかかる。
「なんや、部外者は立ち入り禁止やで」
火のついてない煙草をくわえて、にやにやしながら言う。
テニス部顧問の渡邊オサムちゃんは私が1年と2年の時の担任だから、友達みたいなもんだ。
「ふざけんといてよ、先生。銀さんは?」
私が言うと、オサムちゃんは煙草を指でつまんで、にやっと笑う。
「ああ、は銀さんのこと、ほんま好きやからなあ。ちゃんと告白したんか?」
そしてそんな事を言うものだから、私はイラッとしてしまう。
「何言うてんの、そんなんとちゃうし! 先生のくせにからかわんといてよ!」
私がそう言うと、オサムちゃんはちょっとわざとらしい感じに「やれやれ」といったポーズをとって、いかにも内緒話をするというように私に顔を近づけた。
「この前、商店街のドラッグストアでなあ、まだ明るい時間に、銀さんがえらい堂々とコンドーム買うとったで」
私は思わず自転車のハンドルから手を離してしまい、地面に倒れた自転車がガシャンと大きな音を立てる。
「ちょ……オサムちゃん……!」
だいたい、声でかいし!
「レジのお姉さんにやな、『ワシはこういうもんはさっぱりわからんが、大事な人に渡すモンやから、ええものをお願いします』言うて出してもろとった」
オサムちゃんは私の倒れた自転車を起こしてくれて、相変わらずニヤニヤした顔。
「……大事な人って、私!?」
「がもろたんやったらな」
……くっそーオサムちゃん、誘導尋問やん!
そんな怒りと、いろいろな混乱で胸があふれそう。
「……なあ、オサムちゃん、大事な人って、銀さんが私を大事に思うてるってこと? どういうこと? なあ、どういうことやと思う?」
結局私は必死になってオサムちゃんにまくしたてた。
オサムちゃんは、ふいに真面目な表情になる。
無精ひげに、ヘンな帽子。もっとちゃんとしてたら男前やのにな、なんていつも思ってた。
「、それはお前が銀さんに直接聞けや」
「えー! そんなん、聞けるわけないやん!」
「なんでや、お前、今までさんざんいろいろくだらない話を銀さんに聞いてもろてたやろ。なんでそれくらい言われへんねん」
「……」
私はぐぅの音も出ない。
「だって……」
「お前、先輩やろ。それくらい、ちゃんと言えや」
オサムちゃん、なんでこんな時ばかり、先生っぽいこと言うん。むかつく。
「……さっき部活終わって、銀は滝に打たれとったけど、そろそろ上がってくるやで。なあ、。お前、男のシュミは悪いけど、男を見る目はあるやろ」
そして、いつか銀さんが言ってたことと同じことを言う。
銀さんに言われるならいいけど、オサムちゃんに言われんのはなー、と思って私はキッとにらみつけた。
「……多分、お前が今まで会うた男の中で、銀さんが一番ええ男やで」
そう言うとまた煙草をくわえて、私に自転車を持たせ、ひらひらと手を振って、校舎に向かった。
「……アホー! そんなん先生に言われんでも、わかっとるわ!」
俺の次にやけどなー、と笑いながら言う声が響く。
「どうしたんや、はん」
そして、頭上からの声に私は飛び上がりそうになった。
テニスバッグを背負った銀さんが、少し心配そうに私を見おろしていた。
「渡邊先生に、何か注意されたんか」
私たちがちょっと言い合ってたみたいだから、驚いたみたい。
「あ、ううん、ちゃうちゃう。あの、あのな、銀さん」
さっきのオサムちゃんとのやりとりで混乱したままの私は、とりあえず自分の自転車に目をやった。
「あのな、自転車がな、またパンクしてん!」
そう言うと、銀さんはふっと笑って、私の自転車のハンドルを持ってくれた。
すっかり日が長くなったこの季節、いつもパンク修理をしてもらう部室の外の水道のところは、ハナミズキが満開。銀さんの額にはうっすら汗がにじんでる。
もうすぐ夏だな。
こうやって、銀さんにパンク修理してもらってる時が、私、本当に好き。
作業に集中してる銀さんを、じっと見ることができるから。
だけど、銀さんは手際がよくて、パンク修理なんてすぐ終わってしまう。
大好きな時間は、すぐに終わってしまう。
直したチューブをセットして、空気を入れて、堅さを確かめて、「できたで」と彼は言う。
銀さんが空気入れや修理キットを部室に片付けに行って戻ってきても、私は自転車を立てかけてベンチに座ったまま。
「どうした、はん。もう下校時刻やし、帰るで」
不思議そうに言う銀さんを、私はじっと見上げた。
オサムちゃんの言葉を思い出す。
私、銀さんに何回パンクを直してもらったり、外れたチェーンを直してもらったり、恋の悩みを聞いてもらったりしたかわからない。どれだけ話をしたか、わからない。
今、これまでで一番大事な話をしなきゃいけないのに、なかなかできない。
だけど、私、おねえさんだもの、銀さんより先輩なんだもの、ちゃんと言わないと。
ベンチから立ち上がった。
「なあ、銀さん。お願い、ちょっと聞いて欲しいことがあるんやけど」
私はいつもこうやって、銀さんに切り出して、話を聞いてもらってきた。
銀さんが、いつものように黙って頷くのを待っている。
と、彼はきゅっと口を閉じたまま。
その目はきりっと見開いていて、彼のこういう目を見ると、私は自分の全てを見透かされているようで気持ちがぴりりとする。
「……でけへんのや」
そして、彼の口から出てきた言葉に、私は目を丸くした。
「え……?」
「ワシは、もうはんの話を聞くことはできん」
彼の声も言葉もはっきりしているのに、彼の言葉の意味がわからなかった。
「すまん、もう、聞けんのや。 せやから、こうやって会うこともないやろう」
銀さんは、もう、私の話を聞いてくれないの?
そして、もう会えないの?
どういうこと?
私の頭の中は真っ白で、突然の言葉に心臓は爆発しそうで、何て言ったらいいのかわからない。
銀さんは申し訳なさそうに、そう、ちょうど初めて会った時に、自分はお坊さんじゃないって私に白状した時のような、そんな顔。
「百八回や」
「は?」
ひゃくはち。
銀さんのテニスの必殺技、波動球が百八式まであるという話はよく聞いたけど、ここでその数字が出てくる意味がわからなかった。
「ワシがはんから、相談ごとや頼みごとを聞いたのは、さっきのパンク修理でちょうど百八回目や」
「えっ?……あ……うち、そんなによーさん銀さんに面倒をかけてたんやね、ごめん……」
そうか、そりゃ、うんざりするよね。
がっくりしながら言うと、銀さんは首を横に振る。
「そうやない、そうやないんや」
そう言うと、険しい顔をしてキッと目を見開いて私を見る。
いつも私の話を聞いてくれる、落ち着いた銀さんの顔とは違って、妙な感じ。
なんていうか、その、中学生の男の子みたいなんだ。
「……はんが、ワシにそうやって話をするたび、ワシは期待をしてしまうんや。もしかすると今度こそ、はんはワシを見てくれるんとちがうか、と。ワシも、哀れやな……」
銀さんの言葉のひとつひとつを、必死に聞く。
そして、意味を考える。
いつも、私、銀さんに自分の話をしてばかりだったから。
だけど、私、人の話を聞くのって慣れてないんだなってつくづく思う。
だって、銀さんの言ってることの意味が、難しい。
「うん?」
私が聞きかえすと、銀さんは困った顔になり、テニスバッグをきゅっと背負いなおして目をそらした。一歩下がる。
「ひとの煩悩の数や、という百八回目までは、自分で自分を許したろう思うとった。いつも、はんが、気やすぅ話してくれるよってな。けど、これ以上期待しとっては、はんを正門で待ち伏せとったあの男と同じや。この銀も男、潔ぅ、諦めなあかん。はんはこれから……はんを大事にしてくれるええ男を見つけてくれ」
銀さんはそう言うと、合掌をし、私の前で頭を下げると踵を返して、早足で去って行った。
百八回目!
さっきのパンク修理で、ちょうど百八回目だったの?
ということは、こないだのドーナツショップではカウントダウンの百七回目?
どんどん小さくなっていく銀さんの背中を見て、私は修理してもらったばかりの自転車にまたがり、慌てて追いかけた。
「……せやったら、これで百八回目やけどええのんかって……ちゃんと言うてよ!! うち、数えてへんもん!!」
銀さんの前で思い切り派手に後輪を滑らして、自転車を止めた。
ガシャン、と自転車をグラウンドに置いて、私は一歩銀さんに歩み寄った。
思い切り自転車を走らせて追いついたけど、これ以上何を言ったらいいのかわからない。
いつも、あんなに沢山銀さんに話をしてたのに。
はっと思い出して、バッグの中を探った。
銀さんがくれた、例のブツの紙袋を取り出す。
なんで持ってるかっていうと、だって、家に置いといてお母さんに見つかったらどうしよう! って思うと気が気じゃなかったんだもの。
「これっ!」
私が銀さんに差し出すと、銀さんは一瞬戸惑った顔をする。
「これ、あんなふうに、一方的に渡されても、困る!」
そう言って、ぎゅっと銀さんに押し付けた。
「……そうやな、すまん……」
受け取った銀さんは、いつものように礼儀正しく深々と頭を下げた。
……なんか、ちがう!
「そうやなくて! そんなん、うちにぽんって渡されてもどうしたらええの! うち、そんなん使うんやったら、銀さんとやないとイヤやもん!」
言ってから、しまったーと頭を抱える。こんな風に言いたかったんとちがうのに! もう、イヤ!
「ごめん、こんなん言うつもりとちゃうかってん! ごめん、銀さん!」
私は恥ずかしさのあまり、自転車を持ち上げて急いでまたがって走り去ろうとするけれど、自転車は進まない。さっきのドリフトで後輪がパンクしてしまったんだろうか。
振り返ると、後ろのキャリアを銀さんが片手でがっちり掴んでいた。
「はん、悪かったのはワシや。悟ったようなふりして、ちゃんと言わんかったからあかんのや!」
銀さんは深呼吸をして、じっと私を見た。自転車をつかんでる太い腕にぐっと力がはいって、太さが倍になったよう。
「ワシは実はずっと思っとった。いつもはんが惚れる男は、チャラいダメな男ばかりや! そんなもん、ワシの方がずっとええ男やし、はんを大事にする!」
一息でそう言ってから、彼はちょっと眉間にしわをよせた。
「なんてな、ずっと言えずに、百八回も心のうちで思っとったダメな男や、この銀は」
銀さんがしっかりと私の自転車のキャリアを掴んでるから、私は自転車から降りてハンドルから手を離して、両手で銀さんの背中をばんばんとたたいた。いつもみたいに。
「ほんま、そんなん、はよ言うてよー!」
涙が出そう。
すまん、すまん、銀さんはそう言ってばっかり。
銀さんが例の紙袋をいつまでも手に持ってるものだから、「早よ、しまって。それは、銀さんが持っとってね」と言うと、彼は急に顔を赤くする。
やだ、私、まだ銀さんに私の気持ち、聞いてもらってない。
いつ、言うたらええの?
ま、ええか。全国大会、終わってからで。
百八回目の次の、さいごのわがままは、もう少し先のお楽しみ。
fin
2012.5.3 ナナコ様企画「誰でも最初は」寄稿させていただきました
