● 見た目よりもずっと強い  ●

 この日、毎日イヤと言うほど通っている通学路の風景がまるで違う景色に見えてしまうので、俺はそのことに耐えられず自転車を走らせるコースを変えた。
 学校帰り、まだ暑いくらいに明るい時間。
 そう、時間帯が違うだけで、見慣れた景色はがらっと雰囲気が変る。
 そのことは、まるで
『お前、部活サボっただろう』
 と責められているみたいなんだ。
 まあ、実際に俺は、部活サボってこんな時間にぶらぶら自転車走らせてるわけなんだけど。
 自分でもわかってる。
 校内戦で乾先輩に負けてレギュラー落ちしたからって部活サボるなんて、ダセぇことこの上ないってのはさ。
 けど、俺は自分の気持ちの置き所がわからなくて、どんな気持ちでテニスの練習を続けたらいいのかわからなくて、気がついたら部室にも行かず自転車で学校を飛び出していた。

 いつもの通学路を離れて、あまり普段通らない道になると、少し気持ちが落ち着いた。
 坂を上って、人気の少ない広い公園を見つけた。車止めのゲートがなくて、自転車でも入れそうだ。
 何とはなしに、俺は自転車を押しながら公園に入っていく。
 この時間なら、まさかトレーニング中のマムシに遭遇することもねぇだろ、と思いつつ。
 初めて入る公園は少し新鮮で、妙に気持ちがほぐれた。
 そっか、こいういうのを『キブンテンカン』って言うのかもしんねーな、なんて思いながら、奥に入ったところの小高い場所にどっしり構えている大きな樹に自転車をたてかけて、俺も樹の幹に背を預けた。
 あーあ。
 レギュラー落ちか。
 次の校内ランキング戦で頑張りゃいい、それに向けて今回乾先輩がやってきたみたいにレベルアップするよう努力すりゃいい、頭じゃわかっちゃいるんだけど。
 悔しくてもどかしい気持ちばかりが先走って、何も手につかねーよ。ハァー。
 人がいないことをいいことに、空に響き渡るようなため息をついてやった。
 樹の幹にもたれて足をぶらぶらさせていると、靴の裏に違和感を感じる。何か固いものを踏んづけたみたいだ。
「ん?」
 視線を落とすと、それは眼鏡だった。華奢なフレームで、もともと壊れてたのか、俺が踏んだからなのかフレームは曲がってレンズは割れてすっかり外れてしまっている。誰かの落し物だろうか、結構高そうな眼鏡だよな、やべーよ、なんて思っていると。
 ふと、人の声が聞こえたような気がした。
 周囲を見渡しても、声の主らしいものは見当たらない。空耳か?
 拾った眼鏡をどうしたものか、もう一度視線を落とすと、今度ははっきりと声が聞こえた。
「あのぅ、すいません……」
 その声は頭上からだったので、ハッと上を仰ぎ見る。
「おわっ!」
 俺がもたれかかっている大木の上、俺の身長よりだいぶ高い位置の枝に座った女の子が、泣きそうな顔で幹にしがみついていた。
「あの………ええと……助けて……」
 一生懸命に目を細めながら、女の子はそう絞り出すような声で言うのだった。
 俺は自分の手に持った壊れた眼鏡と、眉間にしわをよせた彼女を交互に見比べた。
 俺は彼女に手を伸ばし、肩車をして木から下ろした。彼女はかなりせっぱつまっていたようで、パンツ見えやしないかなんて心配するそぶりもなく、俺の助けで地上に生還。俺の次の役目は、極度の近眼らしい彼女に手をかして、トイレまで案内することだった。


 トイレから壁をつたって出て来た彼女は、ようやく落ち着いたようで、気まずそうな顔。
 さっきから気がついてはいたけど、俺と同じ青春学園の制服。目を細めて焦点を合わせようという努力をあきらめた彼女の顔は、なかなかにかわいらしかった。大きな目に、つんとちいさい鼻。唇はぽってりしていて、それが整った顔を愛嬌あるものに見せていた。あんまり見えてないんだろうなというのをいいことに、珍しく俺は女の子の顔をまじまじと観察する。
「……あのさ、これ」
 壊れた眼鏡をおそるおそる彼女に手渡すと、彼女はそれを手に取り、軽くため息をついてからレンズのなくなったそれを一応かけてみていた。
「……っ!」
 俺は思わず声を上げかけた。
 だって、眼鏡をかけた彼女の顔は、俺のよく知っているものだったから。
 同じクラスの委員長の……だ。
「……やっぱり壊れちゃってるなー」
 彼女はため息をつく。
 この子、うちのクラスの委員長だったのかと認識すると、俺はちょっと落ち着きがなくなってしまう。
「わ、わり、俺が気がつかずに踏んじまって……」
 彼女は壊れた眼鏡をスカートのポケットに仕舞うと、顔を上げた。さっきまでみたいに、目を細めるような感じじゃない表情でくしゃっと笑って見せる。
「ううん、私が上から落っことしちゃって、どうせその時に壊れてたと思う」
 その笑い方が思いがけず可愛らしいから、俺はちょっと驚いた。彼女に対してこういう印象は、持ってなかったから。
 俺が壁にたてかけていた自転車を回収しにいくと、彼女は困ったようにきょろきょろするので、あわてて傍に戻った。
「かなり目ぇ悪ぃの?」
 俺が傍に戻るとほっとしたようだった。
「うん、眼鏡ないとほんと見えなくて」
 そっか、俺の顔もわかんねーんだろうな。ちょっとホッとした。
「……あの、とにかく助けてくれてありがとう」
 彼女はぺこりとおじぎをして礼を言った。
「私、って言います」
 ああ知ってる。って思ったけど、当然それは言えなくて『っていうのかー』なんて初めて聞いたふり。
「あなたは?」
 そして、当然次に来るだろう流れに準備をしていないバカな俺なのだった。
「え? あ、俺? あ……俺は……」
 今更、同じクラスの桃城だよ、なんて言い出しにくい。
「……俺は、通りすがりのヒーロー、カルロス・サンダーさ!」
 とっさに、昔にいとこの兄ちゃんの家で読んだ漫画に出て来た登場人物の名前を口走ってしまった。そいつがどんなキャラかも覚えてないのに。
 当然ながら彼女は、そのド近眼の目をまん丸にして、そしてくくくと笑い出した。
「そっか、カルロスね。ありがとう、カルロス」
 眼鏡なしの状況で一人で家に帰るのはまず難しいだろう彼女に、送っていくよと俺が申し出ると、彼女は返事をせず言葉を探すような表情。さすがにカルロス・サンダーには警戒されたか?
「……ありがと。でも私、死にたくて家を出てきたから、帰りたくないんだよね……」
「はあっ?」
 予想外の答えに、俺はまぬけなリアクションをするしかなかった。
「な、何か辛いことでもあったのか……?」
 そして続いてこれまた気の利かない問い。だって、どうしたらいいかわかんねーよ。
 ふうーっと、彼女は息を吐く。ため息というよりは、純粋に身体に空気を吸い込んで酸素をとりこみ、いらないものを吐き出すというような感じ。
「……つまんないことよ。失恋しちゃってさ」
「はあ……」
 失恋、てのがまた彼女のイメージじゃなかったので、俺はまた中途半端な相づち。
 さっきから『彼女のイメージ』みたいな事言ってるけど、ってのは、まあ典型的なクラスの優等生。成績よくてまじめで、俺みたいなクラスのさわがしい連中とはまず絡まない。正直、それ以上彼女のことは何も知らなくて、まずまともに口をきいたこともなかった。彼女を見ると、『やべ、委員長だ。注意されねーよーにしねーとな』って思う、そんな感じ。
「……失恋は、まあ、つまんなくはねーよな、大変だよな、告ってフラれたとかなのか?」
 まさかの失恋の話を聞くことになるとは思いもしなかったな。俺は戸惑いながらも、必死で会話を続けた。
 彼女は首を横に振る。
「……同じクラスのバスケ部の男の子なんだけどね。すごく賑やかで人気者で、私なんて話しかけることもできなくて。だから私は、好きだなーって思って、そう思ってるだけでよかったんだけど」
 バスケ部のクラスメイトってだけで、もう俺はすぐに心当った。同じクラスの小林か! あいつは確かに2年なのにレギュラーで爽やか気さくなイケメンで人気あるんだよなー。確か、最近彼女ができたはず。まさか、が小林を好きだったとは意外。はもっと真面目な感じのヤツを好きそうなイメージだから。
「……最近、彼がいつもクラスでよく話してる子とつきあうようになったみたいって聞いて。もちろん、きっといつかはそういうことがあるだろうし、そうなっても、私は別にいいんだって思ってたんだけど……」
 彼女はまた大きく息を吸い込んだ。
 どうしてだろう。
 彼女のその大きく息を吸い込むそぶりは、とても生き生きしてるんだ。目は悲しそうなのに。俺は大きく呼吸をする彼女に見とれた。
「今日のお昼、彼がそのつきあうようになった彼女と二人でお弁当食べてるとこ見て、すごく悲しくなったの。私が彼の隣でああいう風にすることって、絶対にぜーったいにないんだって思うと、何も手につかなくなって、学校も早退して帰ってきちゃった。こんなこと、初めて」
 そういえば、今日の午後、はいなかったような気がする。けど、まさか委員長がさぼって帰るなんて思いもしないから、体調でも悪いのかと思っただけですっかり忘れてた。
「家に帰ったんだけど、家にもいたくないし、お母さんに見つかる前に鞄だけ置いて自転車で飛び出してきたの」
「……で、死のうとしてんのか?」
 はろくに見えないだろう目で空を見上げた。
「実際にはね、死にはしないと思うんだ。だって、そんな勇気ないもん。死ぬって言っても、どうやって死んだらいいのかわかんないし。だから、とりあえず高いところに行きたくなって」
 あ、そんで木に登ってたのか! 委員長、賢いと思ってたけど結構バカだな。真剣な話だというのに、俺はちょっとおかしくなってしまう。いや、悪い悪い。
「……よくあんなとこまで登れたな」
「自転車で来たからね、木の幹に寄せてスタンドかけて、それに足かけて登ったんだよ。……ここ、高台で、それで木に登って景色を見てるとね、ちょっと気分が紛れたの」
 俺がこの公園に立ち寄った時の気持ちを思い出した。
 そういえば、今日は俺もへこんでここにやって来たんだった。
「木に登るなんて初めてだし、木の幹にしがみついて景色を見てると新鮮だった。このまま木の一部になって消えていけたらなあって思ってると、結構気持ちが落ち着いてね」
 一度目を閉じたは、次にはぎゅっと顔をしかめた。
「だけど、そこからが最悪。なんとなく下を見たら、眼鏡を落としちゃってさ。どうしようって思ってたら、小学生くらいの子供たちが遊びに来て、ふざけて自転車持ってっちゃって。あれくらいの高さなら飛び降りれるかなって思ったけど、あまりに見えないから着地の時に怪我しそうでこわいし、そうこうしてるうちにトイレ行きたくなるし」
「で、登場したヒーローがカルロス・サンダーってわけか」
 俺が言うと、彼女は苦笑い。
「……よっしゃ! 死ぬのも何だし、家に帰るのも何だし、まずはその持ってかれた自転車の盗難届けでも出しに行かねー?」
 提案してみると、はまたくくっと笑って、今度はすぐに足を一歩踏み出した。
 俺は自転車を押しながら、ちらりと彼女を見る。
「……俺のTシャツでも掴んどけよ。足下気をつけろ」
「うん、ありがと」
 相手が越前だったら、気軽に後ろにのせて2ケツしていくんだけどな。は『二人乗りはダメよ』とか言いそうだ。
 俺はなるべく彼女が段差のないところを歩けるように気をつけて、道を選んだ。


「……カルロスは好きな女の子とか、彼女とかいないの?」
「はあっ? 俺? そうだなあ………ちょっとかわいいなくらいに思う子はいても、好きな子とか彼女はいねーなー。部活が忙しいし」
「部活? へえ、何部なの?」
 しまった、よけいな事言うんじゃなかった!
「え? あ、えーとテニス部だけど……。は?」
 俺は必死に話をそらす。あまり深く部活のことを聞かれると、俺の正体がバレちまうかもしれない。
「私は、なんてことない文化部だよー。うちの学校、絶対に部活には入らないといけないんだけど、私あんまりスポーツとか好きじゃないしさ」
「へえ、そうなのか。木には登れっのに」
「だって、運動部だと試合とかあるでしょ?」
「そりゃそうだ」
「自分が好きで一生懸命やってるスポーツで試合をして負けたりすると、すごくがっかりするんじゃないかなあって思うと、怖いの」
 は妙に真剣に言う。俺は彼女の言葉を心の中で反芻した。
 そうだ、俺は、負けたんだった。
 自分の心の中を見透かされたようで、俺は言葉が出なくて、急に心臓が大きく動き始めた。
 は言葉を続ける。
「学校の勉強とかは、いいの。そりゃ成績で順位はつくけど、誰かと1対1でやって負けたわけじゃないもん。運動部の子たちってすごいって思う。誰かと試合をして、負けたら『お前はダメだ』ってつきつけられたみたいな気持ちにならないかなあって、私、思ってた」
 俺の心臓はバクバクとしたまま。
 俺の事を言われているみたいだ。
 今回、乾先輩に負けてレギュラーから落ちて、『桃城はいらない』と言われたも同然だ。
 俺は、その気持ちを処理できなくて、こうやって部活をサボってぶらついてたんだ。通りすがりのヒーローなんかじゃない。
「だからなんだよね」
「は?」
「私、好きな男の子がいたのに、一言も話しかけられなかったし、当然好きだなんて言えなかった。相手にされないのが怖い、いらないって言われるのが怖い。そんなことになるくらいなら、最初っから試合なんてしない方がいいって思ってたから」
「……」
 俺のTシャツの裾をにぎりしめながらまっすぐ歩くをじっと見た。
 口をぎゅっと結んでる。
 俺は何て言ったらいいのかわからない。
 だって、が「怖い」っていう「試合」に負けて飛び出してきてしまったのが、この俺だから。
「振られるのが怖いから、傍にも近寄れなくて、それでも結局、決定的に失恋はするんだよ。試合をしなくたって負けるんだよね、私。生きてるのがいやんなっちゃう」
 ふうーっと、今度は本物のため息をついた。
 俺は本当にダメなやつだな。
 目の前にいる、落ち込んだクラスメイト一人励ます言葉もないなんて。
 俺は自分が元気で明るい野郎だと思ってたけど。
 どれだけ言葉を探しても、俺はどうしたって負けた男なんだ。

 妙な空気のまま歩きつづけると、交番があった。
「よっしゃ、とりあえずここで届けを出そうぜ!」
 精一杯の元気な声で言ってみるけど、自分で自分の声が遠い。
 交番に行くとお巡りさんは親切で、自転車を持って行かれた状況なんかを丁寧に聞いてくれる。
「じゃあ、ここに住所や名前を書いて」
 ペンと紙を出されて、は困ったように俺を見た。
「ごめん、眼鏡なくて見えない。住所とか言うから、カルロス書いてくれる?」
「ああ、いいぜ」
 俺がペンを手にするとお巡りさんが妙な顔。
「カルロスって言うの? 君?」
「え? いや、まあ……」
「一応、君の住所と名前も書いてもらうよ。本当の名前は?」
「え? だから……カルロス・サンダー」
「ちゃんと言いなさい」
 急に厳しい顔になったお巡りさんは俺を睨みつけた後、を見る。
さんだっけ? 中学生だよね? 念のため、親御さんに電話をしてもいいかい?」
 はぎょっとした顔。
「それは、いやです!」
 そう言ったと思うと、彼女は俺の手を掴んで交番を飛び出した。
!」
 俺は驚いて叫ぶ。
「カルロス、早く自転車を出して!」
「おい、君たち、待ちなさい!」
 お巡りさんがカウンターの向こうから追いかけて来るよりも早く、俺はを自転車の後ろにのせてぐいぐいと自転車をこぎ出した。


 自転車で二人乗りをして警察から逃げるなんて、いけねーよ、いけねーな!
 は俺の腰にぎゅっとつかまって、背中に顔を押し付けてる。
 交番の前はちょうど上り坂で、俺はぐいぐいとこぎ続けた。
 心臓はドキドキだ。
 だけど、この勝負だけは負けられねー!
 俺は振り向きもせず、自転車で坂を上り続け、横道の住宅街に入り込みその一画を抜けたところにある小さな公園でやっと自転車を停めた。
 さすがに汗ばんで、肩が上下する。俺の心臓はバスドラムみたいにうなっていて、の手を押し上げる程だ。
「……大丈夫だ、俺のチャリに追いつけっこねーよ」
 俺が言うと、はやっと手を離して顔を上げた。
 見えもしない目で、じっと俺を見上げる。
「……ありがとう、カルロス。ごめんね」
「いいってことよ。早引けして家出してきたってのに、警察に電話されたくねーよな。あいつら、KYすぎるぜ」
 俺が言うと、はちょっと泣きそうな顔で笑った。
「……今、私たち、勝ったよね」
 そして、そう言うのだ。
 そういえば、交番に行くまでの、俺の妙な落ち込んだ気持ちはすっかりどこかへ行ってた。
「おう、大勝利だぜ」
 何に勝ったのかは、さっぱりわからないが、とにかく勝ったっていう気分だけは胸に溢れていたのは確か。
 そうだ、テニスの試合で勝った時、こういう気持ちだ。
 一度負けたからって、俺は一生負けたままじゃないんだ。
 乾先輩は、負けた悔しい気持ちを抱えてそれで強くなったじゃないか。
「あのさ、
「うん?」
「実は俺、と同じだ。部活の試合で負けてレギュラー落ちして、ふてくされて部活さぼっちまったんだ、今日」
 いつのまにか、俺はそんなことを話し出した。
 彼女はじっと俺を見て、何も言わないけど、俺の言葉をちゃんと聞いてくれてることだけはわかった。
「……同じじゃないよ。カルロスはちゃんと試合をして、負けた。私は、負けるのが怖くて、試合すらしなかった。カルロスは強いよ。負けたことを乗り越えられるなんて、すごいな」
 彼女はすうっと息をする。
 俺が好きな、しぐさだ。
 周りの空気を大きく吸い込んで、身体に酸素を取り込み、身体の中のいらないものを吐き出す。
 俺もまねをしてみた。
 大きく息を吐くと、クサクサしたつまらない気持ちが、どこかへ消えて行くみたいだった。
「カルロスは強いよ」
 そして彼女は繰り返す。

 俺たちは歩き出した。
 の住所を聞くと、ちょうどこの住宅地の近くのようだ。
 自転車を押しながら、彼女の家まで歩いて行く。ちなみに、案の定優等生のは、自転車の二人乗り初体験だったそうだ。
 、と表札のある家の前で俺は足を止めた。さすがに自分の家まで来たことは彼女もわかるらしい。
「ありがとう、カルロス」
 今日何度目かの礼を彼女は言う。
「いいってことよ」
 はじっと俺を見上げた。
「……また、会える?」
 そして、小さな声で言うのだ。
 俺は胸がぐっと熱くなる。
 そうだ、カルロス・サンダーはこれきりだ。
 俺がカルロス・サンダーでいられるのは、彼女が眼鏡を外している時だけ。
「……あの、俺の本当の名前は実は……」
 俺が言うと、突然俺の口に彼女の手が触れた。
 彼女はあの大きな呼吸をして、首を横に振ってみせる。
 そして、そのまま両手で俺の顔を触った。
「ううん、自分で探す。私、絶対にカルロスを見つけるから」
 彼女の小さな柔らかい手が、俺の頬や鼻、耳や髪を触れていく。
 俺は目を閉じて、されるがまま。
「今は見えないけど、次に会ったら、私は絶対にカルロスを見つけるから。カルロスの顔を、こうやって覚えとく」
 の手が俺を離れた瞬間、俺はぎゅっと彼女を抱きしめた。
 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからないし、当然女の子を抱きしめるなんて初めてだ。
 時間にして、多分一瞬だったと思う。
 でも、俺の背中には、の手の感触が確かに残っていた。
「頼むぜ、。必ず俺を捜し出せよ」
 少し震える声で、俺は言った。
 は俺を見上げながら、大きくうなずいた。
「明日は部活に行ってね。カルロスは絶対、次は勝つよ」
 俺はぐっと親指を立ててみせた。
「おう! も、次に勝負をしたら、絶対に勝つと思うぜ」
 そう言うと、俺は自転車に飛び乗った。
 俺の背中に、胸に、頬に、耳に、の手の感覚が残ってる。
 俺はきっと勝つ。
 そして、俺なんかよりずっと強いも、きっと勝つ。
 また明日ね、というの声が背後から聞こえた。
 どーん! 
 俺は叫びながら、夕暮れの坂道をロケットのように走る。

(了)

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