● 未来はナックルサーブ(1)  ●

「ちょっと切原! なによこれ、どういうことよー!」

 夏休みの間の登校日、さっさと身支度をして帰ろうとする俺を追いかけてくる声。
 振り向かなくても分かる。
 俺の班の班長だ。

「……んんー、だからさ、俺もうそれくらいで限界!」

 俺はカバンのショルダーを斜めがけにして、ポケットの中のチャリの鍵を確認する。
 とにかく俺は早く帰りたくて仕方がないのだ。

「限界、じゃないでしょ! ぜんぜんマトモに手ぇつけてないじゃん!」

 班長が怒鳴りながら手にしてるのは、俺が彼女に提出したノート。
 つまりは夏休み中のグループワークの俺の分担だ。歴史の授業のね。
 確かに奴が言うとおり、相当なやっつけ仕事であったことは否めない。
 ま、言い訳にゃなんねーけど、テニス部の練習とかあってさ、はっきり言ってこのグループワークの課題の分担以外、学校の宿題には一切手をつけてねーってのが本当のところ。
 だから、やってきただけマシってもんだよ勘弁してくれよ。
 なんていう言葉は、勿論口には出さねーけどな。
 ウチの成績優秀な班長、かわいい顔してっけどおっかねーから。

「わりー、マジそれで精一杯なんだって! ヤベ、電車乗り遅れるし、俺ちょっともう帰るわ!」

 俺は片手でゴメンのジェスチャーをして教室を飛び出た。
 班長が俺の名前を叫ぶ声が聞こえるけど、かまってられない。
 だって、これから。
 俺のほんのつかの間の、本物の夏休みが待っているんだ。

***************

 学校を飛び出して、俺はそのまま電車に飛び乗った。
 どこに行くのかって?
 そりゃあ夏休みのお楽しみ、田舎のばーちゃん家だ。
 部活が忙しいから、今日の夜一泊してそんで明日帰るっていう慌しいスケジュールだけど、俺は毎年ばーちゃんの家に行くのが楽しみで仕方がない。
 ばーちゃん家の裏を流れてる川に入って泳いで、魚釣って、サワガニなんかを探す。夜はたらふく美味いモン食わせてもらって、明日の朝はそうだ、早起きをしてクワガタやカブトムシを採りに行こう。あと、そうそう、ニワトリの卵も取りにいく。産みたての卵を炊きたてのご飯にぶっかけて食うのサイコーに美味いんだよな。
 ガキみてーって言われるかもしんねーけど、俺はばーちゃん家でそうやって過ごすのが大好きなんだから仕方がない。
 今日と明日の短い夏休みを満喫するんだ。
 そんなことを考えてたら、電車の窓ガラスに映る自分の顔がひどくニヤケていることに気がついて、さすがに恥ずかしくなったけど。


 目的の駅に到着すると、ちょうど良い乗り継ぎのバスにひらりと乗り込み、窓の外に流れる景色を眺める。
 家から電車で2時間程度なのに、まったく普段の日常とは違う雰囲気に俺はわくわくする。神奈川もちょっと出かければ山間になるし、ウチの近所も緑は多い方だと思うけど、ばーちゃん家のあるこのあたりの土地はいわゆる盆地で、山深さの雰囲気が違うんだ。
 20分ほどバスに揺られて(信号なんかほとんどない田舎道の20分は結構距離があるんだぜ)、停留所を降りてほんの数十メートルくらいのところが俺のばーちゃん家。

「よー、俺だよ!」

 開けっ放しの玄関から三和土に入って声を上げると、奥からばーちゃんが顔を出した。

「赤也か、よく来たね!」

 日焼けをした、けどふっくらきれいな肌で大きな目をしたばーちゃんが嬉しそうに俺を見る。

「へへ」

 俺はカバンをつかんだまま、まずいつも自分が寝泊りする離れの部屋に入って制服を脱ぎ捨ててTシャツに着替えた。
 居間に飛び込むと、ばーちゃんが麦茶と鮎の塩焼きを出してくれてる。

「今夜はてんぷらにするよ」
 一気に飲み干した麦茶におかわりを注ぎながら、ばーちゃんはにこにこしながら言う。
「マジ? やったー! お、この鮎すげーうめー。ばーちゃんが行ってる産直の店のやつ?」
「昨日じーちゃんが釣ってきたやつだよ。赤也が食べるだろうって、たくさん釣ってきた。晩にもあるからね」
「楽しみだなー。じゃあもっと腹減らしてこなきゃ! 俺、ちょっと川行って来るわ!」
 そんな俺の行動なんかお見通しだったのか、ばーちゃんが出しておいてくれたバスタオルをつかんで俺は家を出る。
 空には夏らしいフカフカの雲。
 ばーちゃんの家は川のすぐ傍にあるから、蝉の鳴き声に混じっていつも水音が聞こえる。
 小さい頃は、ばーちゃん家で寝ていて夜中に川の水音が響くのが怖くて仕方なかったけど、いつしか妙に落ち着く音に感じるようになっていた。
 蝉の声と川の水が流れる音、ばーちゃん家と川の間にある竹やぶの竹や植林された杉や檜が風に揺れる音。
 そんなものの混ざった音が、俺にとっての『夏の音』だ。
 さて、これから夕方までのちょっとの間泳いで、腹ペコになったらご馳走を食って、夜には肝試しがてら土蔵の中を探検して……なんて考えながらご機嫌で川原へ行く道をぶらぶら歩いている時だった。

 俺は、ありえないものを見てしまったのだ。

「ちょっと、サナダ! マジでこんなとこに来ちゃってどうすんのよ!」
 女の子の声が響いて、自然と俺はそちらに視線が向く。
 さして人通りのない田舎道で、山のふもとにある養蚕へ向かう路地の梅の木のあたり。
「なぜ、何の目的でやって来たかについては、説明済みであろう。どうして今更そのようなことを尋ねるのだ」
「説明しろって言ってんじゃないの! とんでもないトコに来ちゃったって、改めて驚愕してる、その感情を述べてるのよ!」
 言い合いをしている二人を見た俺は、立ち止まって手にしていたバスタオルをはらりと落っことしてしまう。
 一瞬、言葉も出なかった。
 だって、そこにいたのは見たことのない女の子と、そしてなんと真田副部長だったからだ。

「どっ……どうして真田副ブチョーがここに!?」

 そして次には絶叫に近い声。
 当たり前だろう。
 一体全体、どうして俺のばーちゃん家の近所に真田副部長が?
 まさか、真田副部長の田舎もこの辺りだったとか?
 いや、そんな話聞いたこともねー!
 俺たち三人は顔を見合わせて、数秒。
 正確には、二人が俺を凝視していた、というのが正しいかもしれない。

「キリハラアカヤか」

 真田副部長はあいかわらずのドスの聞いた声で、俺を睨みつけながら言う。
 俺は自然と腹に力が入ってしまうのだが、今日と明日は練習休みなんだから鉄拳制裁を受ける筋合いはないハズ。

「見りゃわかるっしょ。あのー、ここ俺のばーちゃん家で、遊びに来てるんスけど。ちゃんと明日には帰って、明後日の朝練から出ますってば」

 必死で言い訳がましくわめきながら、俺は混乱してしまう。
 そりゃそうだろ、こんなとこで真田副部長と出くわしちゃ。しかも、女の子と一緒なんだぜ?
 んん? 女の子?
 真田副部長が女の子と一緒?
 俺は改めて、副部長の隣にいる女の子を見た。
 小柄でスレンダーな、なかなかかわいらしい子だ。オフホワイトのすっきりしたワンピースがよく似合ってる。
 女の子と一緒ってことは、真田副部長も俺とは会いたくなかったんじゃね?

「ええと、ま、そういうワケなんで、俺、これから川遊びに行くとこなんで、それじゃ!」

 とにかく一刻も早くそいつらと離れてのびのびと遊びたい俺は、その場をダッシュして川に向かった。
 俺は脚には自信がある。
 そして、勿論真田副部長だって脚が速いのは知ってる。
 でも、その時のそれは。
 まるで風のように俺の傍らを横切って俺の前に立ちはだかる副部長には、なんだか違和感を感じた。
 だって、真田副部長が走るともっと足音が重いはずだ。
 その違和感に、俺は妙に背筋が寒くなって立ち止まる。
 当然俺の目の前には、いつもの黒いキャップをかぶって制服を着た真田副部長。

「キリハラアカヤ、いいところで会えた。しばらく彼女とつきあってもらおう」

 副部長の言に、俺はぎょっと目を丸くする。
 振り返ると、さっきの女の子がふてくされたような顔でゆっくりと俺たちの方に歩み寄る。
 なんだってぇ?
 真田副部長、俺に女を紹介するためにわざわざ俺のばーちゃんの田舎までやってきたってのか?
 いやそれとも、もしかして俺、痴話げんかに巻き込まれてる?
 冗談じゃないぜ!

「えっ? いや、あの、俺、そーいうのカンベンっスよ、せっかくの休みだし……川で遊んだり、カブトムシ採ったりしたいんで」

 我ながらワケのわからないことを口走りながら後ずさる。
 だって、いつもながら真田副部長の眉間にしわを寄せた顔、すげーおっかねーんだもん。
 がしかし、後ずさる先にはさっきの不機嫌そうな顔の女の子。
 くそ、もう何なんだよ!

「サナダ! 話が唐突すぎ!」

 すると俺の背後から女の子の声。
 思わずもう一度振り返った。
 俺と同じような年頃のきゃしゃな女の子なんだけど、すげーな、副部長をサナダ呼ばわりかよ!
 そして次には副部長の表情を確認する。
 二年坊主の前で女にサナダ呼ばわりされた副部長、どんな反応すっかなって、そんな好奇心は俺の中で健在だったのだ。

「そうだな、悪かった。ではキリハラアカヤ。まずはお前の希望どおり、川へカブトムシを採りに行くか」

 真田副部長の反応はひどく従順で、そしてスットンキョウだった。

「あ、はあ、けど副ブチョー、カブトムシは川にはいないスけどね……」

 奴らを振り切ることをあきらめた俺は、二人と一緒に川原へ歩いていき、川沿いの平らな岩に腰をおろして裸足の足を水につけた。
 木陰のこの岩の上は俺の気に入りだ。水に足をつけて、流れのゆるやかな水面を眺めてると、魚が泳いでるのが見える。泳ぎ疲れて体が冷えたら、このなめらかな岩の上で甲羅干しをするとほかほかあったかくて気持ちいいのだ。

「ひゃあああ〜、冷たい! でも、きれい! うわっ、あれ、魚!?」

 真田副部長の連れてきた女は異様に激しい反応を見せながら、珍しげに川にひたした足をばしゃばしゃ跳ね上げる。
 真田副部長もスラックスの裾をたくしあげて足をひたすが、いつもの顔でノーリアクションだ。
 いや、しかし、なんでこんなことになってんだよ、まったくもう。

「あのー、ホント、何なんスか。俺、今プライベートなんで、自由に遊ばせてもらいたいんスけど……。明後日以降は決して練習サボりませんから、ほら、今年は立海の三連覇がかかってるって肝に銘じてますし……」

 俺がおそるおそる言うと、真田副部長がぎろりと俺を睨む。

「悪いが、俺たちには時間がないのだ」

 副部長の低い声は、川の流れにかき消されることなく響き渡る。
「ハイ、確かに三年の先輩方は今年が中学最後の全国大会だってコトは重々承知してますって……」
 俺が困惑した顔で言うと、俺と副部長の間に座っている例の女の子が両手を挙げて軽く振った。
「だからサナダ、サナダの話は唐突すぎるんだって。サナダの言うとおり、私たちには時間がないんだから、ちゃんと説明をして。規定の範囲内でね」
 彼女は決して大人っぽい方ではないけど、妙に落ち着いていて、多分頭いーんだろうなーって感じの子だった。ちょうど、例の班長みたいな、ま、俺のちょっと苦手なタイプ。俺は自分がバカだから、こういうタイプは嫌いじゃないけど苦手なんだよな。
 自然とため息が出た。
「そうだな、俺から説明をしよう」
 真田副部長はいつもどおりの落ち着いた声で、静かに話し始めた。
 
 そして、真田副部長の話を一通り聞いた俺は、ビーサンを履いてその場をダッシュで立ち去るのだった。
 だって!
 怖ぇ〜!
 怖すぎだっつの、副部長!
 俺がダッシュしても無駄だということは、さっき川原に来しなの時の出来事でわかっていたはずなのに、俺はその場を逃げ出さずにはおれなかった。
 で、当然ながら、石だらけの川原を必死で駆け出す俺を、副部長は余裕で先回りしているのだ。
 俺はへなへなと地べたにへたりこんだ。

「もう鉄拳制裁でもなんでも受けますから、頼んますから、俺を解放してくださいよ副部長〜!」

 俺は両手を合わせて目を閉じる。

「鉄拳制裁とはどういうことだ?」

 俺の前で仁王立ちになる真田副部長。

「だから、ホラ、いつものアレっスよ。真田副部長のキョーレツな裏拳。いくらでもくらいますから、もうカンベンしてくださいってば!」

 フン、と副部長が鼻をならす音。

「バカな。俺がお前にそんなことができるわけがない」

 俺はおそるおそる顔を上げて真田副部長を見上げた。
 黒いキャップ、がっちりした腹回りにふっとい腕に厚い胸板。
 いつもの真田副部長だ。
 なのに、今の副部長はイカれてる。
 だって、副部長、こんなこと言うんだぜ?

『俺はお前の言う真田副部長ではない。100年と少し未来からやってきたロボットで、この少女の護衛とガイドが役目だ。キリハラアカヤ、俺たちに協力を願いたい』

 副部長の顔はいたって真剣だった。
 これは、手の込んだドッキリ、もしくは罰ゲーム? それにしても、真田副部長がこんな冗談をやるなんて考えられない。
 俺はバスタオルやドリンクを入れてきたワンショルダーのバッグを探って携帯を取り出した。こんな時に助けを求めるのは、勿論参謀しかいない。
 誰かがしくんだ悪趣味な冗談なのか、もしくは本当に副部長が筋トレのしすぎか何かでイカれちまったのか、柳センパイなら俺を安心させてくれる一言をくれるはず。ドッキリにしたって、俺がここまでビビってりゃもうカンベンしてくれるだろ。
 震える手で携帯を操作する俺の前にしゃがみこんで来たのは、副部長ではなく、あの女の子だった。
 パンツ見えそうだな。
 こんな時だってのに、俺は頭のどこかで自然にそんなことを考えて自分のバカさ加減にあきれる。ま、実際は彼女はうまい具合にスカートをおさえてて、パンツは見えなかったんだけどな。

「ね、それ、電話でしょ? その電話で真田副部長に電話してみたら?」

 俺に向かってゆっくりと話す彼女は、今はさして不機嫌そうではなかった。
 穏やかに、丁寧に、電話を握り締める俺の手にそっと触れるのだ。
 その手は柔らかくて、暖かい。
 じりじりとした日差しの下でも決して不快じゃない熱だった。
 真田副部長に電話?
 だって、副部長は目の前にいるじゃないか。
 真田副部長に電話?
 だって、それで副部長が電話に出て、俺と話をしたら……。
 ここにいる副部長が口をへの字にして俺を睨みつけている前で、俺が副部長と電話でもしも会話なんかするとしたら……。
 俺の心臓は怖いくらいにドンドンと音を立て始めた。
 確かに、柳センパイに電話をする前に、真田副部長に電話をしてみてもいいかもしれない。
 ああ、もしかしたら、それがこのドッキリ終了の合図なのかもしれない。
 そんな風に考えてみても、俺の胸に染みのように広がる不安は濃くなるばかり。
 どういうわけか、その俺を励ますように、女の子は俺の手をぎゅっと握る。
 片手を彼女に握られたまま、俺は深呼吸をして真田副部長の携帯の番号を探し出して発信ボタンを押した。
 俺は自分の心臓がこんなにも派手に動くことがあるんだと、初めて知った。
 どれだけ激しいトレーニングをしたって、ここまで心臓が自己主張したことはない。
 呼び出し音がなっても、目の前の真田副部長の身の回りからは電子音が鳴る気配はない。
 副部長ってば、ちゃんと携帯は携帯してくださいよ。
 そんなことを思いながら、留守番電話サービスにつながることを予想して携帯を耳から離そうとすると、耳慣れた声。

『もしもし、真田だ。赤也か? どうした?』

 電話の向こうの声を聞きながら、俺はゆっくり立ち上がって目の前の副部長を穴があくほど見つめる。
 副部長は当然腕組みをしたままで、電話なんか手にしていないし口も閉じたままだ。

『おい、赤也! 聞いとるのか!』

 気の短い真田副部長が電話の向こうで怒鳴る。間違えようがない。真田副部長の声だ。

「あ、ええと、あの、あの、明後日の練習って、何時集合でしたっけ?」

 俺がうわずった声で言うと、案の定雷が落ちた。

『たわけが! 今更何を言っておる! いつもどおり朝7時に集合に決まっておろうが! そんなことを尋ねるとはたるんどるぞ!』

 しばらくは真田副部長の説教が続き(俺の宿題の進み具合にまで言及される始末)、もう電話の向こうにいるのが真田副部長だということは疑いようがなかったわけで。
 さて、その説教から開放されて通話の終了した電話を手にしたまま、俺は目の前の二人を見つめるしかない。
 俺が電話で話した相手は、まごうことなき真田弦一郎その人だった。
 じゃあ、今俺の目の前にいる副部長は?

「ね、わかったでしょ? さっきの話は本当なの。とにかく私たち、どうやらあなたの助けが要るみたいなの」

 気がつくと、女の子はずっと俺の手を握っていた。
 俺の頭は相変わらず混乱しているけれど、でも一部は不思議に冷静で、人の肌の感触と体温って落ち着くものなんだなと、そんなことを考えていた。

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2009.12.14
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