●● ラブミーテンダー ●●
二日ぶりに登校した亜久津仁は、教室の雰囲気がそれまでと少々異なっていることに気づいた。そして、その異変の理由をすぐに察する。
席替えだ。
亜久津が休んでいる間に席替えがあったらしい。
チ、と舌打ちをする。
自分が顔を出している時の席替えならば、確実に好みの席(一番後ろの廊下側)を確保できるはずなのだが、休みの間とあっては勝手に決まってしまっているに違いない。
亜久津はずかずかと、教室の中ほどの席で談笑している顔なじみの方に足を向けた。
「オイ」
彼を睨みつけて、それだけを言う。
「お、相変わらず重役出勤だね」
顔を上げてニッと笑うのは千石清純。
「ご愁傷様、あそこの席だよ」
千石がクイと親指で指し示したのは、前から三番目、窓側から三列目の席。
チ、と亜久津は再度舌打ちをした。
それ以上千石に何を言うこともなく、彼はイライラした気分のままでその新たな自分の席に向かい、不機嫌さを示すように乱暴に机にカバンを置いた。
その瞬間、びくりとする気配。
「……あ、亜久津……」
彼の新しい席の隣に座っている女子生徒だった。
「……ケッ、テメエか」
亜久津は乱暴に椅子を引き出すと腰を下ろした。
「あ、うん、あの……同じ班になったから、よろしく……」
恐る恐る、といった風に話す彼女を無視して亜久津は教科書も出さず、ミュージックプレイヤーのイヤホンを耳に差し込んだ。
席替えをするたび、近くの席の者たちのこういった態度には慣れっこだ。
特にこの女子生徒……は、彼の数少ない同じ小学の出身で、亜久津仁に怯え続けている歴史は長い。
フン、と鼻を鳴らしてプレイヤーのボリュームを上げていると、自分の肘の辺りに触れる何か。
顔を向けると、が遠慮がちに彼の肘をつついてくる。
本日すでに三度目の舌打ちをして、耳からイヤホンを引っこ抜いた。
「ンだってんだよ! ああ!?」
新しい席は最悪だわ、音楽を聴こうとすれば邪魔をされるわ、彼の不機嫌さはどんどん増してきて、当然それは声にも反映される。
「ごめん、怒んないで。あの……4月からずっと言おうと思ってたんだけど、あの、亜久津って美化委員なんだよ。委員決める時、亜久津いなかったから、残ったので決まっちゃって」
おずおずと言う彼女をぎろりと睨む。
「……で、それがどうした」
「もう一人の美化委員、私なんだけどね、美化委員って、結構力仕事の役目があるから、そういう仕事が入ったら亜久津にも声かけると思うんだけど……」
「ドタマかち割んぞ、テメエ! 下らねぇことで俺に話しかけんな!」
亜久津はそう怒鳴ると再度イヤホンを耳につっこんだ。
この俺に委員の仕事だと? 寝ぼけるな。
ちらりと横目で見ると、はため息をつきながら近くの女子とのおしゃべりを再開していた。どうせ彼のことをどうこう話しているのだろう。
イライラする。
自分が周囲から畏れられるようにというのは、彼自身がそう仕向けていることだ。
そうでありながら、彼に対してびくびくするような人間を、亜久津は本当につまらないとしか思えない。自分のまとっているこの鎧が、実は周囲が思うほどに力のあるものではないと彼は知っている。彼の本当の力はこんなところにない。なのに、この程度の鎧にさえ跳ね除けられてしまう、小さなつまらない存在に亜久津はまったく興味が持てなかった。
あらためてを見た。
小学校の3年の時にも、同じクラスだったことがある。当時から、今と同じように彼の前ではびくびくしていたっけ。
が、彼女は決して内気なタイプ、というのではない。
今も、ほら。
近くの席の女子と話しているところ、通りすがりの男子生徒がの背中を叩いて、なにやらからかっている。
きっと、『亜久津にコテンパンにやられたな、言わんこっちゃない』みたいに言われているのだろう。そんな男子生徒を見上げて、は口を大きく開けて笑い、何やら楽しそうに話している。何か憎まれ口でもたたいたのか、男子生徒はの頭を、ふざけたしぐさで軽くこづいた。のやわらかそうな髪が揺れて、また笑う。女らしい、やわらかい笑顔。
亜久津はミュージックプレイヤーのボリュームを思い切り上げた。
*****************
亜久津仁は欠席や遅刻は多いが、学校の成績はそれなりに上位だ。彼にとって学校の勉強を適当にこなすことなどわけのないことだし、そのためにはどのタイミングで授業に出ておけばいいかもおのずとわかっている。
その日はたまたま、出席することにしていた授業が1限目であって亜久津にしては珍しく朝から教室にいた。
「よ、珍しいね」
千石が軽口を叩いてくる。
「ウルセーよ」
「朝から出て来るくらい暇してるなら、またテニス部に戻って来たらいいのに」
さわやかに笑う千石は、亜久津の鎧をものともしない数少ない人間の一人だった。
「バーカ、もう興味ねえって言ってんだろ」
言い捨てながら自分の席に向かうと、まただ。
恐る恐る彼を見上げる視線。
「あの……」
だ。
「……ンだってんだよ!」
彼のドスの効いた声で、彼女は更に眉をひそめて泣きそうな顔になる。
「あのね今日、亜久津が日直なんだけどね、もう一人の日直がアヤコでね。せっかく、朝から来たんだし、今日くらいは日直……ちゃんとやるよね? 今日は社会科で使う資料運びとかあるから、一人じゃ大変なんだって……」
椅子に腰をおろしながらぎろりとを睨むと、彼女はぎゅ、と肩をすくめて体をこわばらせた。
「……なんで、それをテメェが言ってくんだよ」
の後ろで、本日の日直らしき女子生徒がびくりとする姿が目に入る。
「え、あの……だって、ほら、亜久津ってちょっと話しにくいし、一応私、小学校同じで昔から知ってるからさ、頼んでよって言われてるの」
がたん、と大げさな音を立てて彼は机の上に足を放り出した。
も日直の女も、びくりと飛び上がらんばかりだ。
「俺を働かせたかったら、直接言って来い、ボケナス」
それだけを言うと、亜久津はいつものように耳にイヤホンをつっこむ。
大きくため息をつく二人に、千石が笑いながら声をかけているのが目に入った。
知っている。
クラスでの役割ごとなど、当然のように亜久津はすっぽかすのだが、大概の場合千石がそれをフォローしている。
千石は女子に対しこまめに振舞うことが好きだし、そして日直や委員なんかに当たった女子生徒も、亜久津より千石が相手の方がいいだろう。
だからそういったことに対し、亜久津はさして千石に感謝をしたこともなかった。
千石はさきほどの二人と楽しげに話している。も、さっき自分に向けていたおどおどとした様子と違って、苦笑いながらもリラックスした表情を千石に向けていた。千石が、いつものように親しみやすい笑顔に身振り手振りで何かを話しながら、ふわ、との頭に手をのせた。
千石にしたら、珍しい行為でもない。怒鳴られちまってご愁傷様、といった程度のものだろう。は照れくさそうに、それでもはじけそうな笑顔で千石を見上げると、彼の背中をぱしんと叩いた。なんでもない、じゃれあい。
亜久津はミュージックプレイヤーのボリュームを上げる。
*****************
「……ンだってんだよ!」
2限目の後から登校してきた亜久津は、この日はが何かを言い出す前に怒鳴った。気まずそうに彼を見上げるが、またおどおどと何かを言い出すことが目に見えていたからだ。
「ちょ……まだ何も言ってないじゃん……」
蚊の鳴くような声でが言う。
「今、何か言おうとしただろうが、ああ!?」
「そうだけど、言う前から怒んないでよ……」
「じゃあさっさと言いやがれ! ドタマかち割んぞ!」
はあわてて姿勢を正した。
「あのね、ついにね、今日、ワックスがけなの。掃除の後、美化委員がワックス運んで、代表でワックスがけしないといけないの。もう絶対一人じゃ無理だから、お願い、今日の仕事はちゃんとやって」
が懇願するような顔で言った。
亜久津は立ったままでを見下ろす。
「……ケッ、そんなもん千石に頼め。あいつだったらテメェが頼みゃ、ほいほいと手伝ってくれるだろうが」
千石清純の女子生徒に対する守備範囲は広いが、は特に千石が好むタイプの女子だということを、亜久津は知っていた。
これで会話は終了だ、とばかりにミュージックプレイヤーを取り出す。
「でも、亜久津、」
予想に反して、はまだ彼に言葉を返してきた。
「千石くんって、亜久津がサボった役をいつも手伝ってるし、ワックスがけ、結構大変なんだよ。この前も亜久津がやらなかった日直をかわりにやってくれてたし。……今回くらいはさー、たまには、亜久津もちゃんとやってよ……」
一生懸命言うものの表情はかたくて、肩が、きゅ、と縮こまっている。
亜久津は思い切り眼に力をこめて、眉尻を持ち上げた顔を作り彼女をにらみつけた。
「俺に指図すんじゃねーよ」
それだけを言って、イヤホンを耳にセット。
会話終了の合図だ。
授業の後の掃除など、当然亜久津はやったことがない。
ポケットの中のバイクのキーを握り締めながら校庭を歩いていると、一人、台車を押しているの姿が見えた。
ワックスを取りに行くのだろう。
周囲を伺ってみたが、他に同行者はいないようだ。
亜久津は一瞬足を止めて、チ、と舌打ち。
校門に向けていた足を、少し方向修正した。
コンパスの長い彼がに追いつくのに時間はかからなかった。
「……千石に手伝ってもらえっつっただろうが、ボケ」
ポケットに手をつっこんだままの隣に並ぶと、彼女は驚いた顔で見上げる。
「わ、びっくりした! 亜久津! よかった、手伝ってくれるの!」
彼女をぎろりと睨んで、その言葉を否定も肯定もしないまま、倉庫へ向かう。
「なんで他の奴に頼まねーんだよ」
「……だって、一応亜久津にちゃんと頼んだし……。もしかしたら来てくれるかもしんないしって、思ってさ」
は台車を押しながらうつむいたまま言う。
「言っとくけどなァ、別に手伝いに戻ったワケじゃねえ」
そう言いながらも、亜久津はが手をかける前に倉庫の重い扉を開いた。
倉庫の中に残っているワックスは少なくて、ほとんどの教室は取りに来た後なのだろう。
扉を開いた倉庫に、が台車を押しながら先に入った。
そしておもむろに振り返る。
「……ずっと思ってたんだけどさ、亜久津」
日差しのきつい初夏の日、倉庫の中の空気は外気に比して少しひんやりしていた。
「亜久津って……私のこと、そんなに嫌い?」
冷えた空気の中から、彼女は静かな声でそれでもはっきりと言った。
「一応同じ小学校だったしさ、それなりに昔なじみだって、私は思ってたんだけど……」
薄暗い倉庫に差し込む光が、の髪を透かせた。色白の肌に影を落とす。
「……嫌いかって?」
ジリッと彼の苛立ちが熱を持つ。
「……そうだな、俺の嫌いな奴ってのは、決まってる。ぬるい奴、俺のちょっとした態度にいちいちビビるつまらねぇ奴。そんなトコだ、ハハッ」
乾いた声で笑ってみせる。
先に倉庫に足を踏み入れているは外からの光を受けて、まるで舞台でスポットライトを浴びているようだ。亜久津の姿は、彼女からは逆光になっていることだろう。 きゅ、と妙にその表情がゆがんだ。
すると。
下から亜久津の襟元に手が伸び、斜め下に引っ張られる。
バランスを崩した彼は、その機敏な身体能力で体勢を立て直す間もなく倉庫の冷たい床の感触を尻に背中に感じた。
気がつくと、は亜久津に馬乗りになり、襟元をつかんだままその顔を近づける。
「……っ!」
何しやがる、などと言う前にその唇が柔らかいものでふさがれるのと、額に強い衝撃を受けるのは同時で。
「……っ痛ぇな、テメェこの野郎!」
床に横たわったまま怒鳴りつける亜久津を、は真剣な顔でじっと見下ろしていた。
「もういい!」
そして、言うのだ。
「亜久津が私を嫌いなら、どうせ嫌われてるなら、もういい!」
片手で彼の襟元をつかんだまま、もう片方の手では、思い切り亜久津の額とぶつかったその自分の額を押さえながら、は泣き顔だった。
「……何言ってやがんだ、オイ」
「どうせ嫌われてるんだったら、私、もう亜久津をびくびくしながら見たりしないし、最後にこれくらいしてやろうって……」
に馬乗りになられたまま、亜久津は懸命に涙をこらえる彼女をじっと見た。
「……だいたい、テメェはなんでいつもびくびく俺のこと怖がってやがんだ。俺は昔から、テメェに手ェ上げたりビビらすようなことしてねえだろうが。どうせ、俺の悪い噂ばかり聞いてそれで勝手にビビってやがんだろ。そういうのが、ウゼーんだよ」
彼女の様子に少々戸惑いながらも、フンと鼻をならして言った。
するとは亜久津の襟元をつかむ手にぎゅっと力を入れる。
「したじゃん!」
そして、涙ぐんだ眼でキッと彼を睨んだ。
「亜久津は覚えてないかもしれないけど! 小学校3年生のとき、同じ班になって……私がバレンタインのチョコをあげたら『いらねぇよ!』ってすごい怒った顔で投げて返してよこしたじゃん! そりゃびくびくもするよ! 怖いもん! これ以上亜久津に嫌われたらどうしようって、怖いもん!」
一気に言う彼女を見上げながら、亜久津は手をついて体を半分起こした。
「テメェ! 都合のいいことばかり並べ上げてんじゃねえ! 言っとくが俺は記憶力には自信があんだ、覚えてるに決まってるだろう! あん時、テメェは俺だけにじゃなく同じ班の男子全員にチョコ配ってただろうが! まったく同じモンをだ。この俺が、他のヤツと同じモンなんか受け取れるか! テメェが俺にだけくれるみたいなそぶりでよこすから受け取ってみたら、他のヤツもみんな同じモンもらってるじゃねえか、バカにすんのもいい加減にしろ! タコ!」
に負けないくらいの怒気でまくしたてる亜久津に、もまだ引かなかった。
「だって、あれくらいの歳で亜久津にだけチョコあげたら、絶対他の男子にからかわれるじゃない! だから皆に同じのあげて……亜久津のにだけ手紙を入れてたのに! 開けてくれもしないで、私に投げつけて返して……!」
は亜久津にまたがったまま、両手で顔を覆ってうつむいた。肩を震わせながら大きく息を吐く。
「……あれからずっと怖かったんだよね。何をしても、嫌われるかも、嫌われてるのかもって……。中学生になって、今じゃもう、そりゃ他の男の子とは軽口だってたたけるし、きわどい冗談だって平気だけど、亜久津の前だと小学3年の時に戻っちゃって、泣きそうなびくびくする気持ちになっちゃうんだよね……。私が亜久津の前でびくびくするのが不愉快なら、もう話しかけないし、ごめん」
そう言って立ち上がろうとするの腰を、亜久津はぎゅっと片手で自分の体に引き寄せた。
「……テメェ」
そして強い眼でじっと睨む。
「こういうコト、他の男にもしてやがんのか」
は目を丸くしたと思うと、ぺし、と手のひらで亜久津の頬をはたく。
もちろん痛みを感じるようなそれではない。
「そんなワケないじゃん! キスだって初めてだよ! ドタマかち割るよ!」
「テメェ、俺に手ェ上げやがったな!」
亜久津は自分の頬をはたいた彼女の手をぎゅっとつかんだ。
「だいたいなァ、あんなもん、キスって言わねぇ! キスってのはなァ……!」
亜久津の大きな手で抱き寄せられているの腰は細くきゃしゃで、それでいて彼の腰に密着しているヒップや太股は柔らかく、泣きそうでいながらもじっと彼を見上げる目は、しっかり強かった。
亜久津は大きくため息をついた後、チ、と舌打ちをした。
「いつまで乗っかってやがんだ重てぇだろうが、早く立て!」
彼が怒鳴ると、はあわてて立ち上がった。
フン、と彼も立ち上がると、目の前の彼女はシュンとした顔。
「……さっきみてぇな顔、簡単に男に見せんじぇねえよ」
ケッと吐き捨てながら、亜久津は台車にワックスの缶を軽々と運んで載せた。
「行くぞ、ワックスかけんだろ」
はあわてて台車を押して倉庫を出た。
扉を閉めた倉庫を背にして、はゆっくりと台車を押して校舎に向かう。
隣を歩く亜久津をちらりと見上げた。
「……ちゃんとしたキスでもしてくれんのかと思っちゃったよ」
そう言ってから、再度おそるおそる亜久津を見た。
「ああ?」
返すのは相変わらずドスの効いた声。
ぎゅ、と亜久津も台車を押した。
の手の上からハンドルを握る。
の手は彼の大きなそれにすっぽりつつまれてしまう。
「この俺に手ェ上げといてキスだけで済むワケねえだろ、覚悟しとけこのタコが!」
マジで! と叫んで飛び上がろうとするの手を、亜久津は離さなかった。
隣でうつむきながら困ったように笑うその笑顔も、さっきの泣きそうな強い眼も、多分、彼だけが知っている。
そう、それが、彼のほしかったもの。
(了)
2010.3.14
