ルパンVS立海テニス部〜今川家の財宝を追え!〜前編



「イタタタタ、なんかどうにも腹が痛いんスよ……。幸村部長、俺、保健室行ってきていいっスか?」
 高気圧に覆われた暖かい4月の午後、立海大附属中テニス部。
 部室のロッカーの前でがくりと膝をついた切原赤也は、大げさに眉間にしわをよせて見せた。
 幸村、と呼ばれた少年は柔らかな表情を浮かべたまま、制服のワイシャツを脱ぎ捨てするりと芥子色のシャツを身につける。
「そうじゃ、幸村。俺もこころなしか、貧血気味な感じでのぉ。ちょいと、保健室でも行ってこようと思うんじゃが」
 幸村の隣のロッカーではまだ制服姿の仁王雅治が、うつむきながらこめかみのあたりを押さえた。ちらりと顔を上げて、幸村の様子を伺う。
 半袖のシャツの上から同じく芥子色のジャージを羽織った、テニス部部長・幸村精市はふふふと笑いながら二人を見比べた。
「さあね。俺より、真田に聞いてみたら? 俺は一応病気療養中だし、完全に復帰するまでは部長の代行は真田にまかせてあるからね」
 穏やかな声で言い放ちながら、くい、と顎で自分の背後を示す。
 この穏やかな顔をした凛々しい少年は、去年の冬から神経系の難病を患っているのだ。
 彼の奥のロッカーでは、すでに着替えを終えた副部長の真田弦一郎が険しい目で二人を睨みつけながら、きゅ、とトレードマークの黒いキャップを目深にかぶる。
 仁王と赤也は先ほどのポーズのまま、息を飲んで彼の口元を伺い続けた。

「……仁王に赤也! お前たちは、4月になってから毎日毎日……!」

 腹の底に響くような低く大きな真田の怒鳴り声は、全てを言い終わる前に途切れた。

「真田くん! まあ〜、あれほど言ったのに、やっぱりあなた部活に出てきちゃってるのね!」

 彼の言葉を途切れさせたのは、勢い良く部室の扉を開いた闖入者だった。
 
「あなたは、トレーニングのしすぎで筋肉疲労が蓄積しすぎているし、成長期の筋骨格にオーバーワークはダメって、先生言ったでショ。きちんとチェックをした方がいいから、放課後は保健室に来てって言ったのに」

 男子生徒ばかりの部室に遠慮なく入ってきた闖入者は、長白衣を身につけた女性で、一見して養護教諭であろうとわかるなりだった。
 ただ、その日本人ばなれしたくっきり美しい目鼻立ちに、ボリュームたっぷりのバストにヒップに長い脚、それを強調するようなワンサイズ小さめの白衣という組み合わせは、中学生のテニス部の部室にはひどく不似合いとしか言いようがないだろう。
 彼女に釘付けな仁王と赤也の側を通り抜け、まっすぐに真田の前にやってきた養護教諭は、ヌーディなカラーのグロスの唇を上品に持ち上げて妖艶に微笑んだ。
「ねえ、真田くん。先生と保健室に行かない?」
 しっとりとした声が、しんとした部室内に響いた。
 真田は眉間にしわを刻み付けたまま、彼女を見下ろす。
「……先生」
 彼は大きなため息をもらした。
「ご心配はありがたいですが、俺はまったくどこも悪くありませんし、疲れてなどいない。部活の邪魔をしないでいただきたい」
 ゆっくりとそう言い残すと、帽子のつばをきゅっと下げ、そそくさと部室を出て行った。
「ちょっと、真田くん! ほら、いつもそんな顔しちゃって、やっぱり悩み事もあるんじゃない? 保健室で先生に話してみたら?」
 真田の後を追おうとする彼女のほっそりした手首を、幸村がぐいとつかんだ。

「ねえ、心配するんなら、真田よりも病気療養中の俺の方なんじゃないですか、峰不二子先生」

 行く手をはばまれた、養護教諭・峰不二子は一瞬不満そうに、その秀麗な眉をひそめるが、すぐに口元をゆるめ、少年を見た。
 幸村は峰不二子に負けないくらいになめらかなその手を、彼女のそれからそっと離す。
「あん……幸村くん」
 自由になったその手で後れ毛を整えながら、峰不二子はシックなデザインの眼鏡の奥の目を細めた。長いまつ毛にふちどられたその目を、大げさなそぶりでまばたかせる。まるで、彼の視線をはねのけるように。
「あなたは、一病息災と言ってね、自分も周りも十分自覚して気をつけてるから、かえって心配ないの」
「ふふ、だったら先生も、俺のことを心配してくれる周りの1人になってくれたらいいと思うんだけど」
「あなたには、先生じゃなくても心配してくれる人は沢山いるでショ」
 白衣のすそをひるがえして部室を出て行こうとする彼女を、賑やかな声が追いかけた。
「先生! 俺! 腹が痛いんスよ! 俺の腹見てください!」
「赤也、邪魔じゃ! それより、俺、どうも貧血気味でふらふらするんじゃけど、保健室まで手をかしてくれんかのぉ」
 部室の扉のドアノブに手をかけた峰不二子は振り返って、おかしそうに笑った。先ほど幸村に見せた、艶やかな笑顔とはまた違う、明るい笑顔だ。おそらく、こういった数多くの表情が彼女をより魅力的に見せるのだろう。
「残念だわ、ボウヤたち。先生、どっちかっていうと、力がありあまってるような男のコの方が好きなの。元気になって、たっぷり先生の相手ができるようになってから、また声かけて頂戴」
 そう言うと、いたずらっぽく片目を瞑ってみせて、さっと部屋を出て行った。

「くぅ〜、不二子先生は一体どうして、真田副部長ばかり追っかけてるんスかねえ!!」

 赤也は悔しそうに拳でロッカーをたたいた。

「それは先ほど先生がおっしゃっていたじゃないですか。真田クンのオーバーワークが気になってとのこと、なるほど一理あるといえましょう」
 奥からやって来たのは、着替え途中で避難していたと思われる柳生比呂士。
「にしても、あの先生、今月着任してすぐに真田に声かけてきてよ」
 先ほどの騒ぎの中、少々あわてながらも気にせずに着替えをしていたジャッカル桑原が口をはさんだ。
「確かに真田は目立つが、いくらなんでも執着しすぎじゃねえか? ハッ、もしかして真田って、専門家の目から見たら一目瞭然の不治の病だとか!?」
「マジか、ジャッカル! ってことは、うちのテニス部、部長と副部長が入院かよ!」
 フーセンガムをパチンとはじかせて丸井ブン太が驚いた声を上げた。
「真田がなんらかの病気・体調不良である確率は0.07%」
 テーブルでファイルをめくっていた柳蓮二は、おちついた声でつぶやいた。その静かな声に、部室の全員が振り返った。
「あの養護教諭には、何らかの狙いがあるとみて間違いないだろう」
 柳の声はそう続いた。
「って事は、不二子先生の狙いは真田副部長の童貞ってことっスかあ! くっそ〜、どうせ狙うんなら、俺にしてくれたらいいのに!」
 もじゃもじゃ頭をかきむしりながら、赤也は叫んだ。
「ほう、赤也はやっぱり童貞じゃったか」
 仁王は、ゴムで一つにしばった明るい色の髪の毛先をもてあそびながら、くく、とおかしそうに笑う。
「あ、いや、べ、べつにそういうんじゃないっスよ! 例えばの話! 俺はとにかくあの先生のオッパイが本物かどうか知りたいんスよ〜!」
「そのことに関しては、俺も使命感でいっぱいじゃ」
「ですよね〜、仁王先輩!」
「しかし赤也じゃ、本物かニセモノか区別なんかつかんじゃろ」
「に、仁王先輩ならわかるってんですか?」
「あたりまえじゃろ。横になって触ってみりゃ一発じゃ」
「そそそそそそんなの、俺だって……!」
「じゃあ、本物とニセモノでどう違うのか言うてみんしゃい」
 仁王はカカカと笑って赤也の頭をぐしゃぐしゃとかきまわしながら、二人で部室を出て行った。
「真田の童貞を狙うたぁ、大人の女の趣味はわかんねーもんだねぃ、なあジャッカル?」
「ああ? いや、別にどうでもいいよ、さっさと練習行こうぜ」
「みなさん、下品なことを言うものじゃありませんよ! 学校の先生が、そのようなことなど考えるわけないでしょう。いい加減になさい」
 やぶ蛇で柳生の説教をくらいながら、ジャッカルと丸井も部室を後にする。
 柳と幸村の二人だけになった部室に、柳がファイルノートを閉じる音が響いた。
「……あの女には注意した方がいい」
 ファイルを棚にしまいながら、柳が幸村につぶやいた。
 幸村は表情もかえず、くくと笑い声をもらす。
「ベルトはきっちり締めておくことにするよ」
「精市、ふざけるんじゃない。俺が言っているのは……」
「わかっている」
 ジャージを肩にかけたまま、幸村はひらりと手を上げた。
「柳、監督に連絡を取っておいてくれ」
 振り返った幸村の目はいつになく真剣だった。
「……了解した」
 柳はぐっと幸村をみつめかえし、そして再度テーブルに向かうと、ポケットから取り出した懐紙に密書をしたためはじめるのだった。


* ***********

 さて、こちらは神奈川県某所の別荘地である。
 高台にある瀟酒な洋館の一室の日当りの良いソファには、その屋敷に不似合いなひげ面の男が行儀悪く身を沈めていた。
 たっぷりとあご髭をたくわえたその男はダークスーツにボタンダウンのシャツ、室内だというのにボルサリーノを彷彿させるソフト帽を目深にかぶり、その目をさらす事をしない。
 ソファから投げ出した長い脚を、テーブルに乗せてタバコをくゆらせていた。
 一見だらしないだけの男であるがその身なりには存外金がかかっており、そしてその姿には一縷の隙もないことが伺える。

「で、首尾はどうなんだよ、保健室のおネェさん」

 短くなったタバコを加えながら、ニヤニヤと口端を持ち上げた彼、次元大介が声をかける先には、不機嫌そうな顔をした峰不二子がいた。
 立海大付属中のテニス部部室で一悶着を起こして来た、先ほどの養護教諭だった女が、ちょうど部屋に入ってきたところだった。
「うるさいわねェ、こっちは一日中ゴロゴロしてるアンタと違って忙しいのよ」
 バッグと白衣を放り投げてソファにふんぞり返った彼女に、次元はタバコのソフトケースを投げてよこした。見事にそれをキャッチした彼女はそこから1本抜き出すと、優雅な手つきで火をつける。
 部屋の中に、PallMallの独特な香りが更に広がった。
「なぁ不二子、お前さん、『中学生のボウヤなんてイチコロよ』って、言ってたんじゃなかったかい」
 彼が言い終わるか終らないかといったところで、不二子はライターとタバコを思い切り次元に投げつけた。
 次元は顔も上げずに、いとも簡単にそれを受け止めてジャケットの内ポケットにしまった。
「アタシのことばかり言ってないでそっちはどうなのよ。今回のヤマじゃ珍しくアタシにも声をかけてきたと思ったら、あんなガキの相手させられるなんて。え? ルパン、何か言ったらどう?」
 タバコの煙を吐き出してから、相当にいらだった声を上げた。
 部屋には次元大介と峰不二子の他に、もう1人男がいた。
 床に座り込んで、数台のノートPCを目の前に置き、周りには古い書物が山と積まれている。
 その要塞の中心にいる男は、派手なジャケットをまとい、少々猫背で忙しくPCを操作していた。
 峰不二子のけたたましい声など、慣れっこのようで落ち着いた者である。

「まあまあ、そうカリカリしなさんなって、美容に悪いでショ」

 ルパンと呼ばれたその男は、忙しそうに手を動かしながらも軽やかに返事をよこす。PCから顔を上げると、ニッと笑ってみせた。彫りの深いその顔は整っているのだが、愛嬌のある表情と軽口が、先ほどの次元大介よりも大分親しみやすさを醸し出している。が、峰不二子にはそのようなことはどうでもいいらしい。
「パリでモデルのコとデートの約束があったってのに、断ってわざわざ日本にまで来たのよ! 空振りだったらただじゃおかないから、ルパン!」
 まくしたてる峰不二子を尻目に、次元はむっくりと体を起こしてソファに座り直した。短くなったタバコを灰皿でもみ消し(当然灰皿には、吸い殻が山盛りである)、すぐさま次のタバコをくわえる。ただし、すぐには火をつけない。両切りタバコの吸い口をしばし口にくわえて、香りを楽しんでから火をつけるというのが、この男の習慣のようだった。

「なあ、ルパンよ。お前ェのことだから間違いはねェとは思うが、本当に確かなんだろうな? 今回のヤマ、馬場信春が隠した今川家の財宝ってのァ」
「そうよ。だいたい聞いた事ないわよ、馬場信治の財宝なんて!」

 次元と不二子が口々に言うと、ルパンは書物とPCの要塞をひょいと身軽に飛び越え、不二子の隣に腰を下ろした。

「馬場信春ってなァ、武田信玄に仕えていた名将だ。今回探し出すお宝は、武田信玄が永禄11年に駿河侵攻戦の時に、今川家から運び出そうとした財宝さ」
「けどよ、ルパン。そのお宝ってのは、天下の武田信玄が略奪者になんざなっちゃいけねぇってことで、馬場信春が焼き払ったってのが通説じゃねぇのか?」
「なによ、焼いちゃったって! なんてもったいない話なの!」
 思わず口を挟む不二子に、次元が鼻を鳴らした。
「お前みてぇな女にゃ、男の世界はわかりゃしねぇよ」
 わからなくて結構よ、と言い返す不二子を、まあまあ、とルパンがなだめる。
「ところがな、馬場信春ってのは、なかなかに考え深い侍だったみてぇでな。当時の駿河は今川家の度重なる外征で、領国の民は青息吐息だったわけよ。で、信春は考えた。今川家の財宝は、武田家や他のどの武将も手に入れるべきではない。駿河の民が自分たちの土地と生活の復興に使うべきだと、焼き払ったかのようにみせかけて、信春がどこかに隠したっていう説があるんだ。が、残念ながら、その隠し場所を駿河の民たちに伝えることができないまま、信春はその7年後に討ち死に」
 抑揚たっぷりに話してみせるルパンの隣では、不二子は相変わらずイライラした様子を隠さない。
「で、肝心のその隠し場所よね」
「当時、馬場信春から最も信頼の篤かった家臣の末裔が、この土地に住む真田家であるってとこまでは、お前さんはつきとめたんだよな」
 そこから先はどうなんだよ、と言外にただよわせた次元に、ルパンはニヤッと笑いかけた。
 彼が自信たっぷりな時の笑いである。
「俺の優秀な頭脳が導き出したのはコイツさ」
 そしてルパンは身を乗り出して、プリントしたてのカラー写真をヒラリと指でつまんで見せた。それを見た次元と不二子は目を丸くする。
「……何なんだ、こいつァ? え? ルパンよ?」
「そうよ、この漬け物石みたいなのは一体なに?」
 避難めいた声を上げる二人にも、ルパンは余裕たっぷりだ。
「話は最後まで聞けって。いいか、馬場信春の家臣の1人に、家が石職人のやつがいた。このあたりで採れる、溶岩が固まったタイプの石を巧みに切り取って細工するような名工だったらしい。馬場信春はそいつに命じて、石の中に宝のありかを示す地図を封じ込めた」
 彼の言葉に、今度は次元も不二子も静かに聞き入った。
「この写真の石は力石って呼ばれる石で、何の変哲もない石さ。不二子の言うとおり、漬物石みてぇなもんだ。昔の暇人が力比べなんかに使った石で、数十キロから100キロを超えるモンまである。俺の調べたところじゃ、馬場信春は、こういった力石の一つに宝のありかをかくして、信頼のおける家臣に託したはずだ。そう、一見、何の継ぎ目も見えねぇ、何の変哲もない石ころさ」
「で、その石ころが、真田家にあるはずだってことか?」
「そう、ご名答〜」
 次元は、おどけて言うルパンの手からプリント写真を奪い取った。
「けど、今回のヤマで日本に来てすぐ、あの真田家はあらかた調べただろう」
「そうよ。それでさっぱり目処がたたないから、真田家のあのボウヤにまでアタシが張り付かされてるんじゃない」
「たしかに真田家は古い家柄で、日本刀や壷や、それなりに価値のある先祖代々のお宝はあるみてぇだが、石ころなんざ見つかってねえよ。それに、真田家のご先祖さんもそんな石ころを、後生大事に取っておくかねえ。望み薄なんじゃねえか?」
 次元はひとしきり写真をみて、ひらりと放った。
「それを大事に取っておくってのが、日本のサムライってもんよ」
 身を屈めて、ルパンは写真をキャッチした。
「で、そういうネタが一番好きそうなご仁は、どこ行ってるんだ?」
 ごろりとやる気なさそうに横になった次元が言う。
「適材適所。当然、真田家の見張りと偵察さ」
 ルパンはおどけた顔で、刀を振り回すジェスチャーをして見せた。


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 夕刻の海風が吹く中、十三代石川五エ門は眼下の真田邸をじっと見張っていた。
 ちなみに彼が立っているのは、常緑高木である杉の木の梢近くの枝である。
 真田家の広大な庭にそびえている、程高いその杉は、常人ならとても登れはしないような針葉樹であるが、石川五エ門にはその枝を揺らさずに潜んでいることなど容易いことであった。おまけに、針葉樹である杉は、彼の姿をその深い緑の葉に隠してくれる。
 古めかしくそっけない羽織と袴に白鞘の刀をたずさえた若者の視線の先にいるのは、この家の次男坊であり、立海大付属中テニス部副部長である真田弦一郎だった。
 五エ門はルパンからいち早く真田家の力石のことを聞かされ、真田家の見張りに来ていた。
 久しぶりの日本。海の近い静かな町で、日夜修行に励む若者。
 仕事の一環なのだとわかっていながらも、五エ門は清々しい気持ちで今回の任務に臨んでいた。
 ルパンからある程度の情報を得ていたが、実際に見張りをするようになって、五エ門は真田家の様子がだいたいわかってきた。
 真田家の当主はいまだ代替わりせずに、この家の祖父がつとめている。
 というのも、真田弦一郎の父にあたる男は、当主の一人娘の婿養子であり、穏やかで実直な男であるが家督がどうこうといったことにはいまひとつ興味のない男なのであった。
 そして、現在の真田家には弦一郎の上にもう1人兄がいるのだが、彼は現在東京の大学に行っており家にはいない。五エ門の調べたところ、父に似たタイプの男で、どうやら大学卒業後も東京で暮らすことを希望しているらしい。
 当主は元警察官で、現在は剣道の道場を営んでおり、見たところ真田家の男では弦一郎を一番気に入っているようだった。
 その辺りを汲んで、ようやく五エ門は、ルパンが不二子を立海大付属中に送り込んでまで弦一郎を張らせている意味に気づいた。
(……さすがだな、ルパン)
 真田家に代々伝わる重要な何かがあれば、それはまずあの当主が把握していることは間違いない。そして、それを真田家の誰かに託すとすれば、きっとあの弦一郎だろう。
 真田家の様子を探っていて、五エ門はその確信を強めた。
 それだけの信頼できる強さが、弦一郎という少年には見て取れた。
(しかし……)
 夕刻の弦一郎の鍛錬の様子を見ながら、五エ門はいささか首をかしげざるを得ない。
(なぜ、庭球なのだ……)
 戦国武将の末裔、祖父の道場、家に伝わるあまたの名刀。
 これだけのシチュエーションでありながら、弦一郎が汗を飛ばしながら振り回しているものが、刀ではなくテニスのラケットであることが、五エ門にはもうひとつ釈然としないようだった。


**********


 夜更けに、ようやく五エ門は高台の洋館に姿を現した。
「あら、おかえり。こんな時間だと、外は冷えたんじゃないの?」
 ナイトガウン姿でカルヴァドスの入ったグラスを手にした不二子は、リビングに向かう五エ門に声をかけた。五エ門はそのまま黙ってリビングの扉を開ける。
「ちょっと五エ門、返事くらいしたらどうなのよ!」
 言いつつも、さして怒った風もなく不二子は彼に続いてリビングに入った。彼女も、この無骨な若者には本気で腹を立てることは少ないようだった。
 リビングではルパンと次元が、未だ古い資料とにらめっこをしていた。
「よぉ、お疲れさん。どうだった、あのボウヤ」
 ルパンがビールを片手に五エ門を労う。
「なかなか感心な若者だ。朝は四時に起床し道場で剣の稽古、その後、部活動で庭球の朝練。勉学に励んだ後には、また部活動。帰宅してからも自主的な鍛錬を行い、精神統一し瞑想を行ってから就寝。少年のあるべき姿と言えよう」
 ハイネケンの空き缶を握りつぶした次元は、軽くため息をつく。
「へ〜え、そんな輩がお前さん以外にもいたとはねぇ。天然記念物モンだ」
「で、五エ門、お前さん、どう思う?」
 ルパンは新しいハイネケンを手にとって、テーブルに広げた写真を見渡した。
 そこには、真田家に潜入したルパンと次元が撮影してきた、数々の古い品物、そして力石の参考写真が所狭しと散らばっている。
「真田家の力石についてさ」
 プシュ、とプルタブを開けながら、ルパンは五エ門の顔を見上げて、ゆっくりつぶやいた。
「……力石とは本来、それを持ち上げて力比べをする、または言うところの筋肉トレーニングのウェイトとして日々の鍛錬に使う、などが一般的な使い方だ。あの家で力石の本来の用途にあいふさわしい人物としては、当主の翁、そして次男の弦一郎といったところが、妥当だろう」
 白鞘の刀を掴んだまま懐で腕を組み、五エ門ははっきりと言った。
 ひどくまじめな顔で話す彼の隣で、ルパンはごくごくとハイネケンを飲み干し、ぷはあと無遠慮に息を吐くが、五エ門は彼のこういった振る舞いにはすっかり慣れているようで気を悪くする様子もない。
「って、わけよ、不二子ちゃん。明日っからも、真田弦一郎クンをよ〜く探ってちょうだい。なんだったら、お得意の色仕掛けをちょこ〜っとだけなら使ったっていいんだぜ?」
 いたずらっぽく言う彼に、不二子は憮然とした顔でカルヴァドスを一口飲む。
「バカね、相手は中学生よ」
「だよな、中学生からしたら、不二子はオバサンだからな」
 面白そうに言う次元を、不二子は睨みつける。
「何言ってんのよ。モッテモテよ! あのコがちょっと硬派なだけよ!」
「そうだぞ、ルパン。真田弦一郎は、不二子のような女の色仕掛けに陥落するような少年ではない」
「不二子のようなって、五エ門まで何を言うのよ、アンタたちほんっと失礼しちゃうわね」
 不二子はグラスをばんっとテーブルに置くと、男たちに背を向けて部屋を出て行こうとした。
「おい、不二子。何かあった時の通信機だけは忘れんなよ」
「わかってるわヨ!」
 ルパンの声に、不二子は振り向かずに返事をして部屋を出て行った。
 不二子にとって、財宝の魅力は捨てがたいものの、今回の仕事内容はいささか不本意なようだ。
「さすがの峰不二子も中学生相手じゃ、手を焼いてるようだな」
 彼女の苦戦っぷりに、いい気味とばかりに次元が笑う。
「そうからかってやるなって。ご機嫌取るのも大変なんだぜ」
 ルパンは諌めるように言うものの、口元はにやにやと緩んでいる。
「ま、学校内ってのは潜入するにゃ案外難しいモンだからな、不二子に任せておこう。こっちは、明日にでも真田家当主のじいさまの道場でも探ろうぜ」
「……なあ、ルパン」
 静かに部屋を辞そうとした五エ門がふと足を止めて振り返った。
「今回はお主、やけにゆっくりしていないか? 何かを待っているかのように」
 ルパンの隣では、次元が静かにタバコをくゆらせている。
 次元は五エ門と違って、直情にすぐ物を言う方ではない。特にルパンに対しては、言外の気持ちを汲み取ろうとする傾向にある。そんな彼でも、帽子の下から、五エ門の言葉に対するルパンの態度をしっかり観察しようと、鋭い目が光っていた。
 一瞬の緊張感が漂うが、ルパンの態度は変わらない。
「いんや、べーつに。考え過ぎじゃねーの? 気合い入れて力石探そうぜぇ〜」
 いつもの調子で言う彼に、五エ門は軽くため息をついて部屋を出た。


*********


 翌日、いつも通りに立海大附属中に出勤してきた峰不二子は、ちょうど部活を終えて教室に向かう真田弦一郎を発見した。
「あら、真田くん、おはよう。今日も朝練?」
 彼女の姿を見るとビクリとするも、真田弦一郎、さすがに教師に対しての態度はきちんとしたものである。
「おはようございます。地区大会から関東大会と、これからは重要な試合が続きますから、当然練習は欠かせません」
 立ち止まって、律儀に頭を下げた。
 練習中とちがって、普段はあの黒いキャップは被っていない。そして、制服のシャツの裾もきっちりとズボンの中にしまってベルトを締めている。風紀委員長でもある彼は、実に真面目な中学生なのだ。
「ああ、そうなの。でもね、真田くん、練習ばかりで根をつめてたら体にも心にも良くないわ。夏前には部長の幸村くんも入院するかもしれないって聞くし、ここで真田くんまで体を壊してしまったら、元も子もないのよ。一度保健室にいらっしゃい。先生、いろいろお話を聞くわ」
 不二子が近づくたびに、その分真田は戸惑ったように後ずさりをする。
「いえ、大変ありがたい申し出なのですが、先生に聞いていただくほどの話など、俺にはできません。では、授業がありますから、失礼します」
 軽く頭を下げてから不二子の側を通り過ぎようとすると、彼のショルダーバッグがかすかに不二子に当たった。
 その瞬間、不二子ははっとした顔で振り返る。
「あ、すいません、先生。俺の鞄は重いので、痛かったのではないですか?」
 少しあわてた顔をした真田に、不二子は笑ってみせた。
「ううん、平気よ」
 彼女が言うと、真田はもう一度頭を下げてから早足で校舎に向かった。
(確かにただならぬ重さの感じはしたけれど……まさかね。漬物石なんか持ち歩かないわよね、ダイヤやルビーじゃないんだから)
 真田の後姿を見送りながら不二子が肩をすくめてため息をついていると、タタタと軽い足音が彼女の前で止まる。
「あっ、オハヨーゴザイマース、不二子先生!」
 現れたのは切原赤也だった。
「先生、まーた真田副部長を口説いてたんスかァ?」
 からかうように言う赤也に、不二子は平然としたものである。
「バカね、挨拶をしてただけよ」
 ふふ、と笑う彼女に赤也が何かを言おうとすると、校舎に向かったはずの真田の声が響いた。
「赤也! 授業に遅れてはならんぞ!」
 赤也を振り返り、怒鳴っている。
「ひゃっ、わかってますって!」
 赤也は飛び上がって校舎に向かって走った。
「じゃあ、先生、またね〜!」
 不二子は二人の後姿を見て、苦笑い。
「カワイイことはカワイイんだけどねぇ、ボウヤたちのお守はアタシの守備範囲じゃないのよ」
 軽くため息をつく。


 この日は、ルパンと次元も活動を開始するということで、何か新しい動きがあれば、すぐさま不二子にも連絡が入るはずだった。が、不二子への連絡は今のところ一切ない。
 不二子は、この、狙うもののはっきりしない潜入に少々辟易してきていた。
 昼休みに保健室で野菜ジュースを飲んでいる時、勢い良く扉が開いた。
「先生!」
 入って来たのは、今朝も会ったばかりのテニス部の切原赤也だ。
(……またこのコか。キライじゃないけどね)
 苦笑いで迎えると、赤也は元気良く彼女の向かいの席に腰を下ろす。
「先生、俺の血圧測ってください! 俺、興奮すっと目が赤くなるんスけど、どうも血圧が高いらしくて、心配なんスよねー」
 おもむろに、右腕を机に放り出してきた。
 彼女の、ちょうど胸のあたりに投げ出された赤也の腕を、不二子は余裕でするりとかわした。
 赤也は、ちいさくチェッとつぶやいて残念そうにため息をつく。
「血圧なら、そこに自動血圧計があるでショ」
「あー、でもなんかアレ、味気ないじゃないスかー」
 彼がふてくされて言うものだから、不二子は思わず吹き出してしまう。
「味気ないとか関係ないじゃない」
 わざとそっけなく言ってみた。
「ちぇーっ。ねえ、不二子先生」
 赤也は机に身を乗り出して声をひそめた。
「先生が真田副部長の童貞を狙ってるって、マジすか?」
 やけに真剣な顔で尋ねてくる彼に、さすがに不二子も口をあんぐり開けて言葉を失う。
「はあ?」
 不二子は野菜ジュースを飲み干して、パックをゴミ箱に放った。
「誰がそんなこと言ってんのよ」
 呆れて尋ねる。
「えーと、誰だったかな、あれ? 俺? いや、とにかく真田副部長は堅物でおっかねぇし、やめといた方たいいっスよ。それより、俺にしときませんか?」
 ニコニコと笑いながら言う赤也を見つめながら、不二子は軽く肩をすくめてみせた。
「へえ。ボク、童貞なの?」
 赤也は一瞬シマッタというような顔をして髪をかきまわすけれど、ふうっと息を吐く。
「ええと、ああ、まあそんなとこっス。同じ童貞なら、真田副部長より俺の方がおすすめですってば。特に根拠はないっスけど」
 唇をとがらせて言う彼を見て、不二子はくくくと笑う。
 その時だった。
「おい、赤也! やっぱりここか!」
 次に扉を勢い良く開けたのは、褐色の肌のジャッカル桑原だった。
「赤也、お前、学年上がってすぐの小テスト、さんざんだったらしいな。真田がメチャクチャ怒ってたぜ。真田がガミガミ怒るもんだから、幸村が『うるさい』って俺にあたりちらして、まったくたまんないぜ。あげく、『ジャッカルが赤也をなんとかしとけ』だとよ。ほら、英語教えてやるから、早く来い!」
 ずかずかと入ってきて赤也の腕をつかむジャッカル桑原に、赤也はがっくりとうなだれる。
「ええー、ジャッカル先輩、今いいトコだったんスよー」
「バカなこと言ってんじゃねぇよ。先生、すんません、コイツいつも邪魔ばっかりして」
 ぺこりと頭を下げるジャッカルに、不二子はひらひらと手をふって微笑んだ。
「アナタも大変なのねぇ」
「まったくですよ。赤也、ほら、いくぞ! お前も二年生になったんだから、ちったぁ真面目に勉強しろよな!」
 ジャッカルに引きずられていくように、赤也は保健室を出て行った。
「やれやれ……」
 不二子が椅子にそっくりかえって天井を見上げていると、再度扉の開く音。
(今度は何なのよ)
 椅子をきしませて体をおこすと、そこには赤い髪の丸井ブン太が立っていた。
「先生、ここにジャッカル来なかった?」
「ああ、彼なら、さっき切原くんを連れにやってきたケド」
「あっ、くそ、やっぱり赤也に手間取ってんのか。今日は昼メシの後にジャンケンプリンをやろうぜって約束してたのに! 俺の連勝記録がかかってんのに! まったく赤也のやつ、むかつくぜぃ。先生、邪魔したな!」
 ブン太は言うだけ言って、扉をあけたまままた廊下に走り出た。
「まったく、何なのよ……。それにしても、あの桑原くんてコは大変ねェ」
 不二子はぶつぶつ言いながら椅子を立って扉を閉めに行くが、その必要はなかった。
 廊下からするりと入ってきて後ろ手に扉を閉めるのは、テニス部部長・幸村精市だった。
 彼を前にすると、不二子は表情こそ変えないが、その眼の奥の光はきらりと強くなる。
「ねえ、先生。ちょっと話があるんだ」
 決して迫力のあるというような体格をしている少年ではない。むしろ華奢といってもいいだろう。が、彼がずい、と前に出ると不二子は自然と部屋の奥へと後ずさる。
「なあに、悩みごとの相談?」
 艶っぽく笑いながらも、彼の意図をさぐろうとする視線は緩めない。
「いや、相談したいのは俺じゃない」
 昨日、部室でそうしたように、ぐい、と不二子の腕をつかむと、その耳元で幸村はささやいた。
「真田ですよ。真田が、先生に話を聞いてもらいたいんだって。保健室に来るのは照れくさいから、放課後、部室に来てもらえないかって言ってるんだけど、どうです」
 女の子のように愛らしい微笑を浮かべながらささやく少年を、不二子は間近でじっとみつめた。
「……構わないけれど、今朝まで、あのコは私に何かを話すような気はぜんぜんなさそうだったケド」
 不二子が言うと、幸村はフフッと笑う。
「あいつ、ムッツリスケベなんですよ。先生みたいにキレイでセクシーな女の人に近くに来られると、それだけで意識してしまって、あんな風に無愛想になってしまう」
 視線を絡み合わせながら、幸村はゆっくり不二子から離れた。
「ですから、放課後にテニス部の部室で、ゆっくりとあいつの話を聞いてやってください。あいつには、今年のウチの全国大会の優勝がかかってますからね」
 試すような視線で不二子をみつめながら言う幸村に、不二子も強い視線で返した。
「そぉ。だったら、しっかり話をきいてあげなくちゃね。いいわ、放課後に部室ね。待ってて頂戴と伝えて」
「ありがとう、先生。さすが、頼りになる」
 それだけを言うと、幸村は静かに扉を閉めて部屋を出て行った。
 不二子は扉に背を向けてデスクに戻ろうとするが、途中、カーテンの閉じられたベッドの前で足を止めた。
「ところで、いつまでそこにいるつもりなの、仁王雅治くん」
 数秒の間があいた後、シャッと軽やかな音とともに中からカーテンが開いた。
 ベッドに横たわったままの仁王がニヤニヤと笑いながら不二子を見上げていた。
「バレちょったんか。気付かれんように忍び込んだつもりじゃったのに」
 わるびれもせず言う彼を、不二子は腕を組んだまま見下ろした。
「気付かないわけないでショ」
言いながら、このアタシがね、と内心で付け足す。
「いつまでも寝てると、授業が始まるわよ。それに、病気でもないのにこんなとこで寝てるのが部長や副部長に知れたら、またうるさく言われるんじゃないの?」
 彼女の言葉に仁王はさして堪えるような風はないものの、わざとらしくため息をついて体を起こした。
「ま、さっき幸村が来た時に見られんで助かった。ありがとさん」
 ひょい、と軽やかにベッドを降りる。
 一旦扉に向かってから、くるりと振り返った。
「そうそう、先生。さっき幸村にバラさんでおいてくれた礼に、ひとつ教えちゃるよ」
 仁王は、色素の薄いやけにきれいな目で不二子をまっすぐに見据えた。口端には、ふわふわととらえどころのない笑みを浮かべたままだ。不二子は、なんとはなしに、その口元の黒子に視線を奪われた。
「幸村には気をつけんしゃい。あいつは油断ならん男じゃ。この俺の次くらいにな」
 にかっと、明るく笑いながら仁王は部屋を出た。
 腕組みをしたまま、不二子はくっくっくっと笑って変装用の眼鏡を外した。
「まったく、言ってくれるじゃないのよ、ボウヤたち。このアタシに何を仕掛けようってのかしら?」
 笑いながらデスクまで歩いて、ふと思い出したように胸元のチョーカーのペンダントトップを持ち上げてそのふっくらした唇の近くに寄せた。
「ルパン、聞こえる?」
 彼女がささやいた次の瞬間に、ピアスに仕込んだ小型マイクからコールが返ってきた。
『おう、不二子ちゃん、なんかめっけもんでもあったか?』
「今日の放課後、テニス部部室にお誘いがあったわ。とりあえず何か動きがありそう。また連絡するわね」
『りょうっかい、気をつけろよ、ハニー』
「ばかね、中学生相手に何を気をつけろっていうのよ、ルパン」
 甘い声を返して、不二子は通信を切った。
 幸村精市が何かを仕掛けてくるのか、はたまた真田弦一郎が本当に彼女に何か話そうというのか。どちらにしても、この退屈な時間とは決別はできそうだ。
 不二子は自分の中で期待感が高まるのを感じた。

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2009.4.1




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