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● 猫になりたい  ●

 大学が休みに入ったこの時期、つまりそれは猛烈に暑い季節だってこと。
 夏休みとはいえ、何かと学校に行く用事のある私は、学校帰りにスーパーで買い物をして汗だくになって家に帰るところ。
 夕方になって日差しはましになったとはいえ、地面からのじわじわとした輻射熱が私を包む。駅から帰り道の途中にあるスーパーに寄るのは日課で、今日はついついペットボトルのウーロン茶とトマト缶が安いから買っちゃって、少し後悔してる。
 だって、重いんだよね。
 セールする品目も、重さを考えて欲しいよね。
 なんて、はじめての一人暮らしの大学1年の夏にして、すでに所帯じみた考えで、ため息をつきながら岐路についていた。
 ウチのアパートまであと2ブロックというところで、ちょっとした公園があってそこをショートカットするのも私の習慣。
 公園って言ってもショボいもんで、ちょっと油断すると草が伸びてる。でも、そこそこ見通しもよくて気分いいから、私はさっさとその草むらを歩いてた。
 と。
 思いがけない何かに、つまづく感覚。
 歩いててつまづくなんて、小学生以来?
 勢い良く歩いてたから、思い切りつんのめってしまう。そういう時、時間は不思議にスローモーション。私は自然に、手にしてたバッグとスーパーの袋を放して、両手を自分の前でぎゅっと閉じて、転ぶ準備をしてた。
 草むらだけど、石なんかに当たったら痛いかも、なんて思いながら眼を閉じていたのだけど不思議なことに、私の体には何の衝撃もなかった。
 ハンモックって、寝たことないけどもしかしたらこんな感じ?
 眼を開けると、私は大きな男の子の腕の中にいた。
「すまんすまん、俺がこぎゃんとこで寝とったから」
 草むらから起き上がったようなていで、長い両腕で私を抱きとめていてくれた男の子は、眉をきゅっと寄せて申し訳なさそうにそう言った。
 私は何が起こったのかわからず、両手を自分の胸の前でぎゅっと組んだまま、彼を見上げた。
 もじゃもじゃ頭に、襟ぐりの深いカットソー。不思議な髪型だけど、彫りの深い顔立ちで、綺麗な眼をしていた。私がびっくりしたままの顔でいると、彼は大きなあくび。
 そうっと私から手を離す。
 彼の、そののんびりとしたあくびが合図のように、私はハッと我に返った。
「……あっ……トマト缶!」
 思わず言うと、彼はきょろきょろと周りを見渡し、散らばったトマト缶やウーロン茶のペットボトルを拾い集めてくれた。
「これば持って帰ると? 重いな」
 レジ袋の入れて持ち上げると、苦笑いをした。
 立ち上がった彼は、とにかく背が高かった。
 私はスカートの裾の草の葉を払って立ち上がる。
「だって、今日、スーパーで特売だったんだよ。お得じゃん」
「そうか、お得なんは、何より」
 彼はそう言ってまた笑うと、私のバッグだけを手渡し、ウーロン茶とトマト缶の入ったレジ袋は手に持ったまま歩き始めた。
「家、こっちやか?」
 私が歩いていた方向を指して言う。
 え、なに? 荷物持ってくれるの? 家まで?
 なんて疑問はあるけど、いちいちそれを問いかけさせない自然さが彼にはあって、私はうなずきながら彼の隣を歩いた。実際、この公園の草むらを抜けて1ブロック歩けばウチだから、すぐにアパートには到着して、エントランスに入ると彼の歩く足音が派手でびっくりした。
 ふと彼の足元を見ると、下駄。
「あ、下駄はいてるんだ」
 思わず言うと、彼はひょいとその長い脚を片方上げてみせる。
「やかましくて、すまんね。鉄下駄ばい」
「鉄下駄ぁ?」
 確かに彼の下駄は、木製のそれとはちょっと違うようだ。
 変わった男の子だなーなんて思って、彼のガランガランとした足音とともに階段を上がる。
 玄関の前で、彼に荷物を持ってもらったままバッグの鍵を探って、ガチャとドアを開ける。
「……ええと、重たい荷物持ってもらっちゃって、どうもありがとね」
 そう言ってずっしり重いレジ袋を受け取った。
「よかよか。俺があんなところで昼寝しとったから、迷惑かけた」
 彼はニカッと笑って、手を振る。
 と、同時に、グゥ〜という派手な音。
 軽く上げた片手を、気まずそうにお腹に当てた。
「……お腹、すいてるの?」
 私が聞くと、彼は苦笑い。
「ま、ぐっすり寝よったけんね」
「何か食べてく? 簡単なパスタくらいならすぐできるから」
 思わずそう言うと、彼は一瞬目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。
 
 彼を部屋に招き入れると、私は急いでパスタを茹でるための湯を沸かす。
 ちゃぶ台的なテーブルを置いてある小さなリビングの前で、彼はあぐらで腰を下ろし、窓から入る風にここちよさそうに眼を閉じていた。放っておいたらまた寝てしまいそう。
 初めて会った、何者かも知らない男の子を部屋に入れるなんて、私のキャラじゃないはずだけど、不思議に自然で彼もぜんぜん気にしてないみたい。
 まるで、猫が迷い込んできたみたい。
 買ってきたばかりのトマト缶とツナとで簡単なパスタを作って、彼に出すと、おー美味そうーと言って、男の子らしく粉チーズをたっぷりかけて、割り箸を使ってあっという間に平らげてしまった。
 そして、買ってきたばかりのペットボトルのウーロン茶を氷をいれたマグカップに注いで上げると、ぐびぐびと飲み干してごろんと横になる。
 おそるべき、リラックスっぷりだ。
 眠ってるわけじゃないだろうけど、彼は気持ちよさそうに窓からの風に吹かれて横たわったまま。
 もじゃもじゃのくせ毛が風に揺れる。
 私は、つい、その髪に手を触れた。
 彼の髪は思ったよりだいぶ柔らかくて、意外にサラサラだった。もっと、整髪料でも使ってるのかな、と思ったけど。
 私が触ってると、彼は眼を閉じたままくすぐったそうに笑う。
「……んー、気持ちよくて、こんまま眠ってしまう! イカン! 今日はどうも、ありがとうな」
 彼はがば、と起き上がって私の頭に手を載せた。
「あ、ううん、別に、お粗末さまでした」
 彼は玄関へ行くと、例の鉄下駄をひっかけて、ガランとまた派手な音を立てる。
「じゃあな」
 笑って手を振って、廊下を歩いて行く。
 部屋の窓から、彼がポケットに手をつっこんでのんびり歩いて行くのが見えた。
 すっごく背が高いから年上かなあと思ったけど、笑顔が意外に幼くて、同い年くらいかなと思い返す。
 私と同じ、夏休み中なんだろうなあ。
 不思議な子。
 ……そして、とても素敵だった。
 彼がいなくなった部屋で、パスタの皿やカップを片付けながら、部屋になんだか彼のまとっていた草や太陽の匂いが残ってるような気がした。
 本当に、ふらっと迷い込んできた猫みたい。
 あまりに自然すぎて。
「……どこの誰なのよ、一体」
 そんな事をつぶやきながら、お皿を洗う私の手には、彼の髪の感触が残ってた。



 迷い猫のことなんか、思い出さないに限る。
 魅力的な野良猫は危険だ。
 その手触り、匂い、セクシーな身のこなし。
 ほら、思い出さないなんて言ったそばから、この始末。
 だけど家への帰り道、公園の野原を通るのは私の以前からの習慣なんだからね。別に彼にもう一度会いたいからってわけじゃないんだからね。
 なんて、言い訳みたいにつぶやきながら、足元に気をつけながら歩いていると。
 草むらから歩道にさしかかるところの、塗装の剥げかけたベンチに、見覚えのある猫。じゃなくて、長身の男の子。ベンチからはその長い脚がはみ出している。
 眠りながら直射日光を受けた彼の額には、汗が浮かんでいた。
 私は、そうっと手にしていたレジ袋をその額に乗っけてみる。
 彼は、はーっと大きく息を吐いて一瞬うなされると眼を開けた。
「……冷たっ……!」
 飛び起きて、私と目が合って、彼はほんの一瞬だけ驚いた顔をしたけど、すぐにくしゃっとあの笑顔。
「……暑かねー」
「なんで、そんな暑いとこで寝てるの?」
「俺が寝た時は、いい感じに日陰やったよ」
 私はスーパーのレジ袋から、お徳用アイスの箱を出して見せた。
「食べる?」
 彼は当然のようにコクコクとうなずいて、そして私は少し考えて、そのまま歩いた。
 ちらりと振り返ると、重たそうな足音をたてて彼はひょいひょいと私の後をついてきた。
 
 部屋に着くと、リビングの窓を全開にして風を入れて私と彼はガリガリくんをかじる。
「かーっ! 冷たくて、美味かー!」
 彼は大げさなくらいに声を上げる。
 陽が傾く前からあそこで寝てたってことは、まあ学生なんだろうなあ、私と同じような。
 少し日焼けしてるのは、ああやってぶらぶらしてるからなのか、何かスポーツでもやってるのかな。確かに体はがっしりしてるけど。
 なんて、ちらちらと彼を見ていると、さっさとアイスをたいらげた彼はごろりと横になった。前に来た時みたいに。
「ここは、風通しがよくて気持ちよかねー」
 本当に気持ちよさそうに眼を閉じる。
 不思議。
 私、大学に入って初めての彼が出来たとき、部屋に呼ぶのにどれだけ緊張して大変だったか。部屋に来てもらっても、なんだかぎこちなかったりして。
 そんな彼とも夏前に別れてしまったけど。
 それなのに、つきあってるわけでもなく、友達ですらない、どこの誰かもしらないこの子が部屋に来て、こうやってごろりと横になっていくのがどうしてこんなに自然で、心地いいんだろう。
 彼はおそらくたっぷりと睡眠を取った後だろうに、夏の昼下がりの風に吹かれてそのまま寝息を立てる。
 マジ、寝ちゃったの?
 午後の柔らかい明かりに照らされ、風にふかれる彼の顔をじっと見た。
 肌、きれいだな。
 この前そうしたように、そっと髪に触れた。今度は、彼はくすぐったそうな反応をしない。本当に眠ってるんだ。
 リラックスしすぎの迷い猫め。
 私は、テーブルをそっとよけて、彼の隣に横になった。
 彼の腕に額をくっつけてみる。
 公園の匂い、太陽の匂い、かすかな汗の匂い。
 自分の部屋とは明らかに異質なものなのに、どうしてだかほっとする。
 深呼吸をした。
 風が気持ちいい。
 私って、そうそう寝つきがいい方じゃないのに、魔法にかかったようにうとうとしてそのまま、眠ってしまった。

 目覚めたのは、自分のくしゃみの音。
 外はまだ十分明るくて、そんなに長く眠っていたわけじゃないみたい。
 私が身体を起こすと、隣の彼もごそごそと動き出した。
「……ん? 寝とったと? 女の子が風に吹かれたまま寝とったら、いかんばい。身体が冷える」
 そう言うと、周りをきょろきょろとした。何か、私にかけてくれようとしてるみたい。おかしくて、つい笑った。
「なに、自分はいつも外で寝てるくせに」
「俺は男やけん、平気」
 そう言うと、冷えてないか、と私のスカートから出てる足を彼のその足の裏できゅっきゅっとこすった。
 そんな仕草がなんだかおかしくて、妙にかわいらしくて、私がくっくっと笑ってると彼は「心配しとるとよ」といいながら、私の髪をぎゅぎゅっとかきまわした。
 手、大きいなあ。
「隣で寝てたから、寒くないし大丈夫よ」
 彼のふんわりとした熱を思い出して言うと、彼は嬉しそうに笑った。
「そうか、そうか」
 そして、そんな風にお互いくすくすと笑ったまま。
 私たちは、猫がじゃれるみたいに、すごく自然にセックスをした。
 彼に抱かれて、漏れ出る私の声は、夕暮れの風に包まれて溶けていく。
 彼とはこうすることがとても自然だ、というみたいに、私たちは行為に耽った。
 
 終わった頃には、ちょうど外が暗くなっていて、彼ははっと立ち上がった。
「いかん、窓ば閉めないと!」
 そう言って、裸のまま窓とカーテンを閉めて、明かりをつけた。
「戸締りには気をつけないと」
「……え? あ、うん、そうだね」
 彼は時々、お父さんというかおじいちゃんみたいになるんだなあ、と不思議に思いながら服を着た。
「じゃあ、俺は帰るばってん、もう暗くなるけん、玄関の戸締りも気をつけないね」
 そう言うと玄関で鉄下駄をひっかけて、振り返った。
「うん、じゃあね」
 手を振って帰るのかな、と思ったら、彼は思い切り身体を屈めて私の耳元に唇を寄せた。耳たぶを軽く噛む。
「じゃあな」
 耳元でそうささやいて、ガランと鉄下駄を響かせる。
 迷い猫じゃすまないかも。
きっと、もう手遅れ。


 彼はとてもよく出来た野良猫だった。
 しょっちゅう現れるわけじゃない。
 どうしてるかな、ちゃんとご飯食べてるかな、なんてふと思った頃に公園にふらりと現れて、私の部屋に寄っていく。
 アイスを1本食べてすぐ帰る時もあれば、昼寝をしてそのままセックスをしていくこともある。お腹が減った様子だったら、一緒に軽い食事を取った。雨の日は、たっぷりとウチで眠って行った。
 彼と寝るのは、不思議な感じだった。
 心地よい温度のお風呂にゆったりと浸かるような感じで、彼に触れられるのは、湯ざわりのいい温泉に入ってるような感覚。彼は多分、すごく自然に私に触れてるだけなのに、それはびっくりするくらい気持ちがよくて感じて、まあはっきり言って、彼とのセックスは本当に気持ちがよかった。いつも、明るい時間に窓を開けたまま耽る、夏の空気に包まれたセックス。
 

 野良猫が姿を現さなくなったのは、いつからだろう。
 まだまだ夏休みは続いて、暑い毎日。
 彼と最後に会ったのがいつかなんて、私は日記なんかつけていないから、覚えていない。
 けれど、2週間ちかく経っていることだけは分かる。
 もう、会えないのかな。
 そうやって言葉にしてみても、不思議と実感がなかった。
 だって、彼と会って、声を聞いて、話して、触れて。
 そうしている瞬間以外は、私は何も彼のことを知らない。
 彼は私にとってリアルなのか、夢なのか、それも分からない。
 けれど、もし彼に二度と会えなかったら、私はどうなるだろう。
 彼に会えないかもしれないという実感はないけれど、でも会えていないことだけは確実。
そんな日々の中も私は淡々と学校の課題をこなさなければならなくて、府立図書館へ本を返しに行った帰りだった。
賑やかな男の子たちの集団を見かけた。
 大きなテニスバッグなんかを背負った子たちだ。中学生かな? 高校生かな? 私はこのあたりの出身じゃないから、制服を見ても分からないけど。
 大きな声で楽しそうに笑いあう彼らを、見るともなしに眼をやると、ひと際長身で目立つ子がいることに気づいた。
 思わず、足を止めた。
 聞き覚えのある、ガランという重い音。
 彼だった。
 
 足を止めた理由は、これ以上近づいてはいけないと思ったから。
 けれど、遅かった。
 賑やかな男の子たちの中にいる彼は、ふと私と目が合って、そしていつものように笑って、軽く片手を上げる。
 と、同時に、彼の傍にいた小柄で元気のよさそうな男の子がロケットのように私の方に飛んできた。

「なあなあ、ねーちゃん! キレーやなあ! 千歳の知り合い?」

 いかにも手作りといった巾着みたいな袋にテニスラケットを入れた男の子は、とにかく元気一杯といった風でぴょんぴょん飛び跳ねていて、私は面食らってしまう。
「え? え? ちとせ?」
「ワイ、遠山金太郎言います、四天宝寺中の1年!」
「え? え? 四天宝寺中?」
 中学? 中学生?
 私は、その元気な子の背後からゆっくり歩いてくる彼をちらりと見ながら、心の動揺が抑えられない。
「ねーちゃん、ええ匂いするなー。シャンプーの匂いとー、お菓子の匂い!」
 迷い猫の彼も変わってるけど、この子も変わってるな! 私はとりあえずバッグから、カントリーマァムの小袋を取り出して遠山くんという男の子に差し出した。
「うわー、おおきにぃ!」
 遠山くんが、さっそくその袋をやぶこうとすると。
「金ちゃん、これは俺の」
 遠山くんとはまさに大人と子供以上の身長差の彼が背後からやってきて、ふいと遠山くんからカントリーマァムを取り上げる。
「なんでやー、これはワイがもらったんやー! ワイのお菓子やでー!」
 大暴れをする遠山くんを軽く片手で押さえて、彼はたいして食べたそうでもないカントリーマァムをポケットに入れた。
「こいつは俺んものやけん」
 もう一度そう言うと、遠山くんと私の間に割って入るようにして、私を見下ろす。
 学校の制服に、大きなテニスバッグ。
 足元の鉄下駄だけが、私の知ってる彼。
 私はいっぺんに夢から覚めた気がした。
 彼が私に何か言うけれど、私はくるりと踵を返して駅に向かって走った。
 
 だって、彼、中学生!?

 あんなに元気いっぱいな男の子たちとキラキラした毎日を送る彼が、本当の彼だなんて!
 ふらふらぼんやり、迷い猫みたいな彼は、仮の姿?
 背後で、つかの間、ガランガランという音がしたけれどいつしかそれも遠のいた。
 電車を乗り継いで、いつもの自宅の最寄り駅へたどりつく。
 今日は、いつもみたいに公園を横切っての近道はしなかった。
 もちろん、彼とそこで会うはずがないことはわかってる。
 そして、アパートが近づくにつれ、足取りが重い。
 部屋に戻ると、彼のことを思い出すに決まっているから。
 彼と会うことは、きっともうないっていう実感に押しつぶされそう。
 現実って、こんなに痛いんだ。
 はあ〜っとため息をつきながらうつむいて、それでもゆっくりアパートに近づくと、ガランという音。
 はっと顔を上げる。
 エントランスのところには、先ほどの制服姿の彼が、長い脚をぶらぶらさせながら笑って立っていた。
「どうしてー?」
 だって、絶対に私が先に電車に乗ってたのに。まずは、単純にそういう驚き。
「あそこからやったら、電車乗り継ぐよりバスの方が早か」
 いきなり解決された疑問。
 でも、私のわだかまりはそれだけじゃないからね。
「……全国大会の試合で、しばらく東京へ行っとった」
 彼の背負ってるテニスバッグをちらりと見る。
「部活?」
 彼はうなずく。私は思わず、また大きなため息をつく。
「……中学生だなんて、知らなかった」
「聞かんから」
 相変わらずの穏やかな顔でしれっと言う彼を、私はキッと見上げた。
「自分だって、私のこと何も聞かなったじゃない。私たち、お互い名前も知らないんだよ?」
 私が言うと、彼はニッと笑ってそして一瞬キラキラッと輝いた気がした。
 いつもウチの玄関でそうするように、彼は腰を折って屈み、私の耳元に口を近づけた。
 そして、そこでささやくのは私の名前。
「……知ってたの?」
「表札」
 ゆっくり身体を起こす彼を見て、私はぽかんと口を開けた。そっか、そりゃそうだ。
「名前ば呼びたいのに……いつ、口に出して名前を呼んでいいのか、わからんかった。俺の名前ば、聞いてくれなかから」
いつもゆったりと落ち着いてる彼が、そんなことを言うのが意外。
だって、さっき私の名を呼んだ時、「王手」って顔、してたもの。
「……名前、なんて言うの? 教えて?」
 けど、彼の手は間違ってない。彼に名前を呼ばれてから、私はまるで胸の中に灯がともったみたいに熱が上がってる。だから、そう尋ねた。
「千歳。千歳千里」
 耳元でささやくように言う彼の声は、相変わらずセクシー。
「他に聞きたいことはなかか?」
 彼……千歳千里は、初めて会った時のように私の体にくるりと長い腕をまわしてそう言った。私たちは自然にアパートのエントランスに向かっている。
「……言葉、変わってるね? 出身どこなの?」
 私が聞くと、彼はおかしそうに笑った。
「いまさらかー。よかよ、なしても聞いてくれ。たくさん、話したい」
彼に触れられて、彼の話を聞くたび、きっと私の胸の奥の灯は熱くなるんだろうなと思うけど、これだけはもう絶対逃れられない。
かわいい猫ちゃんは、愛すべき肉食獣だからね。

Fin

2012.6.30

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