「あ〜あ、四日間もオペラやで、どない思うちゃん」
オペラ鑑賞会の初日終了後、保健室に立ち寄った忍足が憂鬱そうにこぼしている。
「忍足、ラブロマンス好きなんでしょ? ニーベルングの指輪、恋愛バリバリじゃないの。特に明日のワルキューレからはそんな話じゃない?」
こっちはいろいろ打ち合わせや準備で大変なんだから、なんて思いながら。
「いや、俺、ああいうドロドロしたんは好きちゃうねん。もっとロマンティックで甘い恋愛モノがええわあ〜」
「さいですか」
「それにしてもちゃん」
改まって言う。
「なに?」
「ちゃん、最近なんや疲れてへんか。忙しいんか? ヘンな男にでもつきまとわれとるんか?」
まあ、その両方と言えなくもないけど。
「それとも、刺激のない毎日で退屈しとるんか? よかったら俺が刺激に付き合うで?」
忍足の、こういう本気っぽい冗談はなかなかに面白くて、私は嫌いじゃない。
「刺激はもう沢山。何もない退屈な日の方がいいわ。ほら、オペラ鑑賞会も終わったんだし、部活が始まるんじゃないの」
私が言うと、また忍足は『せやせや』なんて言いながらため息。
しかし明日もやで〜、イヤやな〜、オペラ退屈やな〜、保健室で寝とりたいわ〜、なんてこぼしながら保健室を後にした。
まあ3〜4時間のオペラを4日間も続けて観るなんてのは、跡部みたいな子じゃないかぎり勘弁願いたいっていうのが正直なところだろう。
でも、こっちはそれどころではないのだ。
ついに銭形警部とルパンたちが同じ舞台で行動を始める。
今日は初日で、ベーレンスも動き出さないはずだからまだ待ちではあるけれど、彼がこの会場内でどういう動きをするのか片時も見逃せない。
今日はホールの各所に仕込んである監視カメラをフル稼働だった。
舞台が終了した今頃は楽屋は、さぞごった返しているだろう。
とりあえず様子を見にホールへ向かおうと、長白衣をロッカーに仕舞って保健室を出ようとすると、扉が開く音。
廊下から保健室を覗き込んでいるのは、少々背中の曲がった白髪の紳士と、肩幅が広く黒縁眼鏡をかけた堅物そうで落ち着いた中年男性。
何かご用でしょうか、と言いかけて私は声を上げそうになってしまう。
あわてて扉の方に駆け寄った。
「ちょっと……!」
二人の傍に行き、彼らを睨みつけるように見上げた。
黒縁眼鏡の男はニヤリと笑う。
「お〜、よくわかったな」
その声はルパン三世だ。
「私立中学にゃ十分溶け込めるだろう」
白髪に白い髭の老人は次元大介の声でいたずらっぽく言う。
「……もしかして、その姿でうろうろする気? 銭形警部があなた方の登場を、今か今かと待ってるのよ? 今日はまだ予告当日じゃないとは言え……」
私が言うと、ルパンが人差し指で私の額を軽くはじいた。
「バーカ、泥棒が現場に足を踏み入れずしてどうすんだっての」
当たり前ではあるけど、泥棒の思考回路なんて私にはさっぱりわからない。
二人を伴ってホールに向かうと、三年生の子たちがまさに『解放された!』といった感で散らばっているところ。残るのは教師や警備員、限られた報道関係者くらいである。
歩いていると、私の仕事用の電話が震える。
「はい」
相手は当然榊先生。
「私だ。本日ダイヤは無事警備に戻された。鑑定のチェックでも問題ない」
私はほっと息をつく。とりあえず今日のところは無事ということだ。
これで警備もひと段落だろう。
私たちは楽屋へ向かった。
今日の目的はひとつ。
ベーレンスを間近で見ておくこと。
私は医療関係者ということでパスを所持しているから、楽屋への出入りは問題ない。そして変装をしたルパンと次元にも学校関係者のパスを発行してある。
警備員に写真入りのパスを提示して難なく楽屋へ通じる廊下へと侵入した私たちに、急にたちはだかる人物。
私はぎょっとして彼を見上げた。
「おお、これは先生。お疲れ様です」
真摯なその声は、銭形警部だった。
私はさすがに緊張する。
だって、今私が一緒にいるのは変装しているとはいえ、彼が一途に追い続けているルパン三世とその相棒・次元大介なのだ。
「いえ、警部こそお疲れ様です。まずは初日無事終了したようですね。何よりです」
私があたりさわりのない事を言ってその場を通り抜けようとするが、彼の鋭いまなざしは私の隣の二人を射た。
「先生、そのお二人……」
ここまで来ているっていうことは、パスを持っているし問題なく警備を通過しているというのに、まだ何か言うつもり? この堅物の警部は?
「……申し訳ありません、職業病でしてな。私の記憶では、このお二人の顔は教員のリストにはなかったように思うのですが……」
銭形警部ってば、氷帝に出入りする全教員の顔写真まで頭に入れてたって言うの!?
まあ、私と一緒であれば上手く言えば通り抜けられるはずだけれど、何て言おう、とちらりと二人を伺うと、さすがに彼らも若干戸惑っている様子。勿論、彼らにしたらこんな状況は初めてではないだろうけど、私はこういうのちょっと緊張しちゃうじゃない。
「え、ああ、あのこの方たちは……」
私が取り繕おうとしていると、ふっと私の隣に立つ人影。
「ああ、こいつらは、俺の付き人だ。基本的にプライベートの時にしか付かないんだが、今回の公演期間中は警察も出入りしたり物騒な事があるといけねぇって、ついてこられちまったんだ。仕方ねぇだろ? アーン?」
跡部景吾だ。
銭形警部はさすがに彼の事は重々承知のようだった。
「はっ! 跡部くんのガードの方々でしたか! 失礼いたしました!」
それだけを言うと、改めて私に目礼をして去っていった。
私は胸をなでおろしてから、跡部を見る。
何か言おうとすると、彼は左手を眉間のあたりに掲げ、それを制した。
「これから、オットー・ベーレンスに面会しに行くんだが、お前らも来るか?」
きりりと着こなした制服で、いつもの不敵な笑みを浮かべて前髪を軽くかきあげながら言う彼はまったく普段通り。
そんな彼に対しさっき銭形警部と対面した時よりもさらに面食らった様子のルパンと次元の背中を、私は軽く押した。
「うん、そうさせてもらうわ」
廊下を歩く私の耳元で、白髪の次元がささやいた。
「……このガキ、俺は気に食わねェな」
「仕方ないわ、ターゲットに近づくには一番の近道よ」
私の言葉に、ルパンは異存ないようだった。跡部がすいすいと歩く後を、私と一緒についていく。次元は観念したというようにゆっくり歩くが、それは彼が変装した姿にぴったりの動きだった。
芸術監督の名前の書かれた控え室の部屋で跡部が足を止めると、ちょうどそれと同時に扉が開いた。
跡部も日本人の中学生にしたら背は高い方だけれど、その彼よりも頭ひとつ近く長身の男が中から出てくる。
オットー・ベーレンスだ。
私が全身に緊張感を走らせるより先に、ベーレンスはまず跡部景吾を視界に入れた。そしてにこやかな表情をもってして、両手を広げてみせる。
跡部も同様だ。
普段見せるよりも大分愛想のいいそぶりで、ドイツ語での会話を開始した。
彼らは初対面ではないようだった。
跡部がドイツ語で今日の舞台についてのコメントを述べると、ベーレンスも愛想良くそれに応える。
おかげで、私たちは十分に間近でベーレンスを観察することができた。
長身で細身の初老の男。
跡部とにこやかに話してはいるが、やはりその眼差しは鋭い。扱いなれていると見えるその左手の義手の動きも、妙に狡猾に見えてしまう。これは先入観かもしれないけれど。
ひとしきり跡部を話をしたベーレンスは、その場を辞するサインを示した。
そして、跡部に背を向ける前に、跡部の傍らに控えていた私たちにふと目をやった。
ルパンはその眼鏡の奥から、次元は目の上までかぶさる白髪の鬘の奥から、ベーレンスを見る。
ベーレンスの薄い青の瞳は、勝利を確信しているような自信に満ちていた。
跡部は確認をするように一瞬私たちの方を見る。
私たちにすれば、もう十分だ。
跡部が軽く挨拶をすると、ベーレンスは自分の付き人たちとともに楽屋を後にした。
私が跡部に何か言おうとすると、またそれを遮るかのように彼は片手をひらりと挙げてみせ、『じゃあな、また明日』とだけ言って去っていった。
その後、当然ながら私たちは地下のミーティングルームで情報のすりあわせをする。
氷帝のホールでのダイヤの動きはだいたい把握できた。
当然ダイヤがはめ込まれたティアラは控え室の中でも厳重に警備されており、毎回その警備の中、フリッカ役のベリンダ・モリスの出番の度に手渡される。
そして彼女の出番が終わる度に、警備に戻されるというわけだ。
つまり、厳重な警備の下にあるか、衆人環視の中かのどちらかということ。至極当然であるけれど。
そして、監視カメラの映像によれば、ベーレンスは舞台袖で適宜歌手やスタッフに声をかけたり動き回っている。これも特に不自然ではない。
ベリンダ・モリスがティアラを身につけて舞台に出てから出番が終わるまで。
その間に、ベーレンスはダイヤをすりかえる気だ。
「不可能ではないだろうけど、相当な早業ね」
「俺たちゃ、さらにその上を行かなきゃなんねェってコトよ」
次元はなんでもないように言う。
「どうするの? ベーレンスが手出しできないよう、舞台の間中どっかで拘束してしまうとか?」
私が言うとルパンは鼻を鳴らして笑う。
「そーんな芸のない力技は俺様の美学にゃ反するね。あいつにゃ、俺様をコケにした事を後悔させるようなお灸を据えてやんねェとな」
「だから、どうやって?」
私がやきもきして言うと、ルパンはニッとあの愛想のいい笑顔。彫りの深い顔をしてるんだから、きっともうちょっとすまし顔を作れば二枚目なのにね、なんて思ってしまうけど、多分こんな笑顔を見せるのが彼のいいところなのだろう。
「そりゃ、明日のあいつの動き次第さ」
あきれてソファにもたれかかった私を、次元が覗き込む。
「……心配するなって言うんでしょ?」
私が言うと、彼は軽く肩をすくめて見せる。
「い〜や、お前サンが考えてることと同じさ。おいルパン、大丈夫なのかよって」
二人で大きなため息。
さて翌日、『ワルキューレ』当日。
「ちょっと、慈郎! またこんなトコで寝ちゃって、もうすぐオペラ鑑賞会でしょ!」
保健室を出ようとすると、ベッドで慈郎が眠りこけていることに気づき慌てた。
これから忙しいのに!
無駄と分かりながらもユサユサと彼をゆすっていると、扉の開く音。
「ウス」
樺地だった。
「あっ、樺地、来てくれたの! よかった!」
跡部に頼まれたそうだ。
いつものように軽々と慈郎をかつぎ上げて行ってくれた。
さすが跡部、ソツがない。
慈郎も寝る場所が変わるだけなんだから、さっさと会場に行けばいいのに。
通信機のインカムを装着しようとしていると、また扉が開く音。
なに、もしかしてまた忍足?
なんて思いながら眉間にしわを寄せて顔を上げると、榊太郎だった。
「開演前に楽屋へ入れるよう、手はずは整えてある」
『決戦』当日に、何かねぎらいの言葉でもかけてくれるかと思ったけれど、確かにこういう時、彼はいつだって必要なことを必要なだけしか言わない。
「了解」
私もそれだけ返事をした。
私は仕事とプライベートははっきりと切り替える方。
だから、別に、いつかの朝に彼が作ってくれたグレープフルーツのフレッシュジュースのことなんか思い出さない。
そう、思い出さない。
と、彼の手が私の耳に触れた。
びくりとすると、彼は私の耳にかけているインカムのイヤホンの位置を直してくれた。
「……くだらない泥棒ごっこなどさっさと終わらせたいものだな。せっかくのオペラだ」
そしてかすかに笑って軽くかがんだと思うと、私にキスをした。
久しぶりに私の鼻をくすぐる、スパイシーで甘いフレグランス。
彼の唇が離れて、つい吐息がもれてしまう。
榊先生はこういうところ、本当に読めない。
「もうすぐここに電話が入る。そうしたら泥棒たちと行け。私は先にホールに入っている」
そう言って片手をひらりとさせて、部屋を出て行った。
「お〜お、見せ付けてくれちゃってぇ」
慈郎が寝ていたベッドの、隣のカーテンの奥から聞こえてきたのは、少々フテくされたルパンの声。シャッとカーテンを開けた。
すでに変装済みの姿で、ベッドに横になりその長い脚をぶらぶらさせていた。
「あの音楽教師も、お前サンがスケベ野郎だってことを重々承知の上で牽制してやがんのさ」
隣ではベッドの端に腰掛けた、同じく変装済みの次元がからかうように言う。
その手には一見して使い込まれていることのわかる、リボルバーの銃。彼の、銃を扱う手つきは繊細で、不意に榊先生がピアノを弾いている時のことを思い出した。
「……そんなものが必要になる?」
私の言葉に、彼は顔を上げた。
「さあな」
わざとらしく肩をすくめてみせてから、その銃を私に放った。
私は、ずっしりと重いその銃を片手で受け取って、それを医療器具用のハードケースの中に仕舞う。
榊先生が出て行ってから30分後くらいだろうか、彼が言ったとおり電話が鳴った。
ホール内の氷帝のスタッフが体調を崩したため、来てほしいという内容。
「さあ、こっちも開幕よ」
私がハードケースを手にして立ち上がると、二人はベッドから飛び降りた。
私たち三人の楽屋への侵入は昨日に比べて格段にスムーズ。
私は当然として、ルパンたちはなんといっても跡部様お墨付きですからね。しかも、跡部景吾直属の付き人で医療の心得もあるということで同行しているからボディチェックもあっさりしたものだった。
一旦楽屋に入れば、周囲は私たちのことどころではないから動くことに難はない。
当然ながら、今、楽屋の嵐の中心はベリンダ・モリスと彼女の小道具であるティアラ。
ベリンダ・モリスの楽屋の隣がティアラを保管する警備の部屋になっている。
現在、その二つの部屋の周囲をいかにも緊張感のある警官たちが囲っていた。
警備室の扉が開いた。
中から出てきたのはベリンダ・モリスと、そして銭形警部。
歌姫の頭には輝かしいダイヤ。
彼女がステージの方へ近づくにつれ、警備員は少しずつ離れていく。
これから舞台に出ようという歌手の集中力を散らさないための配慮だろう。
そんな彼女が足を止めた。
傍らにオットー・ベーレンスが立つ。
この二人の重厚なオーラは強力だった。
これからのベリンダ・モリスの舞台は、ベーレンスが監督する舞台で最後のものとなるのだ。そんな背景設定もばっちり。
彼がいくつか言葉をかけると、ベリンダ・モリスは感極まったように彼の胸に顔をうずめる。熱いハグの後、彼女は舞台へと向かった。
映画のワンシーンのような、スマートで感動的な瞬間。
「……どうだ、ルパン」
ルパンはジャケットの内ポケットから出した小さな液晶画面を覗き込んでいる。
私が手にしているハードケースに仕込んだ高性能のカメラからの映像が再生中。内容はさきほどの二人のシーン。
ルパンは慣れた手つきで画面を操作し、目的の部分を鮮明に拡大しスローで再生した。
「おうおう、やってくれるじゃねェの。なかなかの腕前だ」
そして、なんとも嬉しそうな声。
ルパンの手元の画面では、ベーレンスの胸に顔をうずめたベリンダ・モリスのティアラから彼のシャツの胸のポケットにダイヤが転がり落ち、そして彼の右手がすばやく替わりのモノをはめ込むシーン、そんなものが映っていた。
そして、今私達の目の前では表情ひとつ変えないベーレンスがベリンダについて舞台袖の方に向かう。
目を離してはなるまい、と私があせってそちらに身体を向けると、私の名を呼ぶ声。
この声、既に顔を見ずともわかる。
「先生、ご苦労様です! 病人が出たそうですが、大丈夫でしたか」
相変わらず実直そうな銭形警部だ。
「え、ああ、機械室のスタッフが体調をくずしたようですが、ただの低血糖だったので問題はありません。ご心配おかけしました」
私が言うと、彼は私の隣の二人を見た。
「ああ、跡部景吾くんの側近の方々はお医者さんでもいらっしゃるとのことですな! 昨日は誠に失礼いたしました。あ、私はまだ警備がありますので、これにて失礼!」
そう言うと彼はベーレンスと同じく舞台袖の方へ向かった。
ダイヤは間違いなくベーレンスの手に渡っている。
私がルパンを見上げると、ふ、と彼はその大きな手を私の頭に置いた。
「そう心配そうな顔すんなって。アイツの手に渡ったことは確認できた。後は簡単さ、アイツの手から奪い返して元通りはめ込んでやりゃいい」
簡単さ、って!
その時、私の耳元からかすかな電子音がした。
『ダイヤの行方はどうなった?』
通信機を介した榊先生の声だ。
「ベーレンスの手に。今ベリンダ・モリスが身に着けて舞台に出て行くものはすでにイミテーションです」
『そうか』
特に驚いた様子は伺えない。
『機械室に必要な物は用意してある』
私と同じく通信機を装着しているルパンと次元は、榊先生の言葉を聞いて顔を見合わせた。
「ま、話の早い奴ァ嫌いじゃねェさ」
そして白髪の下で次元がニッと笑った。
機械室の扉を開けると、そこには既に榊先生が立っていた。
「脚本、演出、監督、すべて任せて問題ないな」
そしてルパンに言う。
「おっほ〜、プレッシャーかけてくれっじゃないのよ」
変装を解いたルパンは大げさに笑いながら、テーブルの上の暗視スコープを手にした。
そして、モニターに映し出されるベーレンスの姿を見る。
彼は舞台の下手の方で、感極まったように音に合わせて身体を動かしている。
最後のワルキューレ、そして無事手に入れたダイヤ。
そんなことが彼の興奮度合いを高めているだろう。
「ルパン、時間がないぜ。チャンスはベリンダ・モリスが舞台に出ているその間だけだ。彼女が引っ込むとティアラは警備室に入れられっちまう。鑑定が入るのは移送直前だからそれまでは間があるが、警備室に戻っちまってからだとあのとっつぁんもいることだし相当面倒だぜ。俺たちが現れるのをてぐすね引いて待ってやがんだからな」
「かといって、舞台に出ている間にどうやって手を出すの?」
私はたまらず口を出してしまう。
ルパンは私が持ってきていたハードケースの中から次元の銃を取り出し、それを彼に放った。
「この主演兼泥棒監督に任せときな、助演女優ちゃん」
私は目を丸くして思わず榊先生を見上げるけれど、彼は相変わらず表情ひとつ変えないのだった。
「そもそも、まずダイヤのありかを探らないといけないのよ?」
当然とも言うべき私の疑問に、邪魔くさそうに鬘をはずした次元が答えた。
「そいつは簡単だ、仔猫ちゃん。普通に考えてみろ、大事なモンはどうやって保管する? 肌身離さずってのが基本だろ?」
「そりゃそうだけど……」
「今回の公演に先立って、ベーレンスは義手を新しく特注で作り直している。ま、あのお手手ン中に、ダイヤモンドを隠し持つのが順当ってモンさ」
私は彼のあの少々不気味な動きをする左手のことを思い出して、あ、と声を上げた。
作戦について打ち合わせを繰り返す時間はなかった。
何しろ、チャンスは一瞬、一回だけ。
それはベリンダ・モリスの最後のシーン。
それを最後に、ティアラは警備の手に戻り、そして本日の公演が終われば金庫に保管される。
私に任された持ち場は、舞台の下手。
ベーレンスが舞台を眺めているその場だ。
スタッフや警備が慌しく動き回る中を抜けて、彼の傍に立った。
舞台裏というのは何しろ人が慌しくて、入り込んで堂々としていれば意外に他人から気にされることはない。私は、AEDの設置に来たなんていう名目ですんなりと舞台袖まで近づいた。
きらびやかな舞台を通して上手の方をじっと見る。
そこには次元大介がいるはずだ。
舞台では重厚な音楽、そして堂々たるフリッカ役のベリンダ・モリス。ここぞとばかりに好色なヴォータンをなじっている。
ベーレンスはヴォータンに自分を重ねることはないのかしらね、なんて、こんな時だというのに私は陶酔しきったようなベーレンスの後姿を眺めた。
ステージの抑揚にあわせて身振り手振りでノリノリだ。
耳元のインカムからジジッと音がした。
『暗転まであと30秒だ』
榊先生の声。
『カウントダウンは頼むぜ』
ルパンの声。
私は手元の暗視スコープを装着した。
『、もう一歩右に移動しろ』
次元の声がゆっくりとした指示を出す。
『動くなよ。世界一のガンマンを信じろ』
「了解」
私がつぶやくと同時に、榊先生の声がカウントダウンを始めた。
目の前では相変わらず両手を振り上げたベーレンス。
『5、4、3、2……』
照明が落とされる。
ティンパニの音とともに、舞台の上手から一瞬破裂音。
目の前で、感極まって両手を上げていたベーレンスの左手が宙に舞う。
次元大介が上手からベーレンスの義手を撃ち抜いたのだ。
火薬の量を減らしているとは言え、正直私はちょっと冷や冷やもの。
けど、ベーレンスの義手は正確に私の目の前に飛んできて、亀裂の入ったその中から零れ落ちてきたものは見事なブリリアントカットのダイヤ。
感激している場合じゃない。
それを握り締めた私は数歩走って、舞台天井部のキャットウォークを見上げる。
そこにルパンの姿を確認して、思い切りダイヤを放り投げた。
ルパンの手には、フリッカの頭からワイヤーで引っ張り上げたティアラが既にある。
見事な早業でダイヤをはめなおし、フリッカがステージを去る直前にティアラを頭上に戻す、はず……。
が、ルパンがダイヤを戻したティアラをワイヤーに引っ掛けるとき、それが彼の手からすべり落ちるのが見えた。
『ルパン、やべぇぞ』
おもわずこぼれた次元の声が通信機から聞こえた。
このままでは、ティアラが派手に落ちてしまう。
が、そうはならなかった。
場内の拍手の中、かすかに聞こえる小気味よい音。
その音の一瞬後に、ティアラは宙でくるりと軌跡を変えて再度ルパンの手に収まった。
聞き覚えのある音の方を暗視スコープを通してみると、そこにはラケットを持った少年。
跡部だった。
いつものように左手を眉間に当てて、傍にいる樺地にラケットを手渡すと何事もなかったように席に着いた。
跡部の放ったテニスボールが、ティアラを弾いてステージに落下するのを阻止したのだ。
はっとして舞台を見ると、ルパンが無事にフリッカの頭上にティアラを戻した様子。
自分の頭の上で起こったほんの一瞬の出来事にまったく気づかず、満足そうに舞台を下がるベリンダ・モリス。そして彼女を迎えるのは、呆然と自分の足元の割れた義手を眺めるオットー・ベーレンス。
ベリンダ・モリスが舞台でのフリッカさながら何かを言っているが、すでに彼女の周囲は警備員にかこまれていて、私も長居は無用。
暗視スコープを外した私は、軽やかな気分で楽屋を後にした。
ホールの外へ出ると、今や聞きなれた足音が近づいてくる。
「怪我ァなかったか?」
「世界一のガンマンが失敗するわけないじゃない」
「けっ! ビビってたクセによ」
「よっ、お疲れさん!」
ルパンが合流してくる。
「あっテメエ、冷や冷やさせやがって、このヤロー!」
「まあまあ、結果オーライってコトで」
ルパンは私に黄色いテニスボールを放ってよこした。
「こいつをあの坊ちゃんに返しといてくれ。サンキューってな」
茶目っ気たっぷりにウィンクをしてみせる。
「さ、これで全てあるべきところに収まったってコトで、俺たちゃ失礼すっぜ。いつまでも銭形のとっつぁんと同じ空気吸ってるのは身体に悪ぃ。ああ、そうだちゃん、アンタはなかなかいい仕事をすっから泥棒に転職したくなったらいつでも言いな」
私は思わずクスッと笑う。
「今のところまだいいわ。こっちの労働条件があまりにひどくなったら、お願いするかもしれないけど」
待ってるぜ、といいながらルパンはいつの間にかホールの近くに持ってきていたコンバーチブルの運転席に乗り込んだ。
「じゃあな、仔猫ちゃん」
次元のそんな言い草にも、いつの間にか慣れてしまった。
「ああそうだ」
そして彼は思い出したように言って振り返った。
「そういや、俺はまだ報酬をいただいてなかったな」
私は目を丸くする。
「報酬? 榊先生、何かそんな約束をしたの?」
今回の件で報酬を出すなんて話、私は聞いてないんだけど。
次元は帽子を軽く持ち上げて、ニッと笑う。
「最初に会った時に、ルパンがアンタから勝手にいただいたモンさ」
そう言うが早いが、彼はクイと私のあごを持ち上げて口付けた。
ぴりぴりするくらいに煙草の匂いの染み付いた熱い舌、そしてあご髭がくすぐったい。
「おっと、妙な注射はゴメンだぜ」
私から離れた彼はそう言って笑うと、ルパンが走らせるコンバーチブルに飛び乗った。
まったく泥棒は、ちゃんとした挨拶の仕方も知らないんだから。
唖然としながらも、自分の口元がほころぶのがわかる。
私はくるりと踵を返して、退屈なオペラ鑑賞に戻ろうとした。
と、ホールからは急ぎ足の銭形警部とその部下達。
「おお、これは先生」
「警部さん、会場の警備はいいんですか?」
私が驚いて尋ねると、彼は複雑そうな顔をする。
「ダイヤの出番はこれが最後。あとはダイヤが会場から金庫に戻されるだけです。さすがにこうなればベーレンスは手出しできまい。それに、ルパンが去ったからにはもう私がここにいる必要はない」
彼の言葉に私は目を丸くしてしまう。
言葉の出ない私に、銭形警部はにやっと笑ってみせる。
「ま、少年少女が学ぶ学校ってトコでは、何も起こらないのが一番ですな。何も盗まれない、誰も捕まらない」
そう言って、ウィンクをしてみせる。
「それでは先生、我々はこれで失礼いたします」
警部は私に敬礼してみせてから、部下をせかす。『いそげ、ルパンを追うぞ』と発破をかけて車に乗り込んでいった。
今頃、ベーレンスは割れた義手を見つめて呆然としていることだろう。
何が起こったのか、わかっていないかもしれない。
ダイヤが金庫に収納される際の鑑定結果を聞いて、驚くことだろう。
でも、もうそれもどうでもいい。
退屈なオペラ鑑賞会があと二日続いて、あとは夏休み。
明日も明後日も、きっと慈郎が保健室で寝ていてそれを樺地が担ぎ上げに来て、忍足が退屈退屈と愚痴をこぼすんだろう。
学校っていうのは、そういう所。
それがあるべき姿。
「ご苦労だったな」
いつのまにか私の隣には榊太郎が立っていた。
ご苦労、なんて言ってもたいして感情がこもっていないのはいつものこと。
「よかったですね、まったく何事も起こらなくて」
私が少々いやみっぽく言ってみると、彼は首を傾けて私を見下ろした。
「そうだな。しいて言えば、が一番被害にあったといったところだろうが……」
彼はゆっくり私の顔を覗き込む。
「これで帳消しになるだろう。口直しだ」
馴染み深い、甘く心地よいキス。
まさか特別手当がこれだけっていうワケじゃないでしょうね、と言うと、彼は軽く微笑んだ。
学校なんて、何も起こらない退屈なくらいの方がいいに決まってる。
刺激的な男が一人いるだけで、十分。
fin
2010.4.4