暁の恋愛クライマー



 空気の澄んだ日には、東京の私の家からも富士山が見える。
 富士山を見ると、私はいつも彼を思い出す。
 同じクラスの、手塚国光くんを。
 
 私が欠席裁判でクラス委員にされて、手塚くんと組むことになってから満期終了も近い。最初は、優等生でテニス部の有名人でものすごく真面目そうな彼とクラス委員なんて緊張する……と気が重かったけれど、慣れると彼はそんなに付き合いにくくはなかった。
 普段、要領は悪くないはずの私が、彼との作業で緊張して失敗したり忘れ物をしても、穏やかにフォローしてくれて、結構優しい。慣れると軽口も平気で、とにかくまったく「ツッコミ」をしないボケ殺しの彼に、ちょっとでもツッコませようと一生懸命、ツッコミを教えようとしたけれど、それはいまだ成果無し。
 私がツッコミを教えるかわりに彼からは、彼が好きだという山の話を沢山聞いた。
 海外の山の話から、実際彼が登った山のことまで。
 
「山って、夜、真っ暗で寒いんでしょ? 怖くない?」
 なんて私が素人丸出しの質問をしても、彼はちゃんと真剣に答えてくれる。
 卒業アルバムのクラスのコメントを整理しながら、放課後の教室で何気ない会話。
「勿論、装備は万全にする必要がある。どんな低地の山であっても、油断はならない」
 
 私にとっては、彼が、山そのものだ。
 きれいで、力強くて。
 周りは悠然とした緑で、ひとつだけ高くそびえている不思議な山、富士山みたいだなって思う。
 そんな、近くて遠い彼を、好きになることなんて絶対にないと思ったのだけど。
「準備万端で挑んだものの、危険だと思ったら、すぐに引き返すことが重要なんだ。遭難することだけは避けなければならない」
 彼は登山心得を話してくれる。
 その話は、とても参考になる。
 この、恋愛クライマーにとっても。
 うん、わかってるわかってる。
 私には準備が足りない。手塚国光っていう山に登るには、とにかくいろんなものが足りない。それが何かはわからないけど。そして、もし挑んだらすぐに遭難することなんか目に見えている。
 だから、富士山は見ているだけ。
 登ったりしないんだ。
「……登りきったらさ、やっぱり、やったな!って感じで満足なんだろうね」
 それに……。
 手塚くんは、中学を卒業したら、彼なりの世界にはばたいていくことを、私は知ってる。
 もし私が登頂に成功したとしても、そこで、ヤッホーって言っておしまい。
 彼を見ると、ふと彼の口元がゆるんだ。
 気難しい犬みたい。こういうのが、彼の笑顔なんだって、最近知った。
「いや、違うな。山頂は、通過点にすぎない。一番、心が満ちて達成感があるのは、山を降りて地面に足をついた瞬間だ」
 へえ、さすが、浮かれないね、なんて思っていると彼はその強い視線をそらさないまま。
「山に挑むのは、戻る大地があるからだ」
 彼は繰り返した。
 視線を外せない。
「……俺は必ず帰って来る。それまでには、お前のボケにも、ちゃんとツッコミを入れられるようになっておく」
 そんな風に、まったくいつもと変わらない調子で言うものだから。
「……ノリツッコミもね」
 お土産を催促するかのように、そんな風にしか言えなくて。
 泣くな、っていう手塚くんの少し困った声で、涙がこぼれていることに気がついた。

2.19.2012




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