柳蓮二のデータノート〜真田弦一郎編〜



『真田の家にでも集まって、U-17合宿に向けて三人でちょっとしたミーティングをしないか』

 幸村精市からそんな連絡を受けたのは、穏やかな初秋の日だった。
 そういった提案に、柳蓮二はもちろん反対の論があるはずもない。

『真田の家も離れの改修が済んで落ち着いたようだから、そろそろ前みたいに集まりやすくなったと思うよ』

 少々含みのある精市の言葉に、蓮二ははっとした。

『そうか、真田のお兄さんのご夫婦が戻って来たんだったな』

 精市との通話を終えた蓮二は携帯電話を机に置くと、データノートを繰りながらふふと笑みを浮かべた。

 真田弦一郎には歳の離れた兄が一人いる。
 蓮二が弦一郎と懇意になり、家を訪ねるようになった頃には、その兄はすでに結婚をして家を離れていたから、顔を合わせたことはない。が、弦一郎の話しぶりからして、兄を尊敬し慕っていることは伺われた。
 そしてある時、精市が冗談半分に言葉にしたこんな一言は、蓮二のデータノートに後々まで記されることとなる。

『真田はお兄さんのことが好きだけど、お義姉さんのことも本当に好きだからね』

 精市のそんな一言に、弦一郎は『家族の一員として、それは当たり前であろう!』とひどく激しい反応を示していたことから、精市の言葉の奥にひそむものを蓮二は容易に察したものだった。

 真田弦一郎の好みのタイプ=兄嫁

 蓮二のデータノートには、そう力強く記された。

「お義姉さんは真田が物心ついた時から兄さんとつきあっていて、しょっちゅう家にも来ていたようだし、そりゃあ真田にとっては女神様のようなものだろうね」

 待ち合わせ場所から真田邸に歩を向けながら、精市は穏やかに言った。その手には、みやげ物の立海まんじゅうの詰め合わせ(お徳用)がさげられている。なんだかんだといって、気のつく男だ。

「精市は、弦一郎のお兄さん夫婦に会ったことがあるんだったな」
「ああ。俺は小学校に上がる前から真田の家に行っていたし、お兄さんにもよく遊んでもらったよ。ほら、小さな子供の頃って、年上のお兄さんっていうのはすごく憧れるし大好きなものだろ? お兄さんに遊んでもらうの、すごく楽しみだったっけ」
 精市が、幸せそうに微笑む。
 蓮二も精市と同じように男兄弟がいない。だから、そういった気持ちはよくわかった。
「特に真田のお兄さんは歳が離れていて、だからといって父親というほどでもなく、程よく男としての完成形の年齢だったからね。そりゃあ真田もお兄さんのことが自慢げだったよ。あの頃の真田はかわいかったなあ」
 くすくすと笑う。
「それで、お義姉さんはどうなんだ?」
 そう、それに蓮二のデータノート真田の章の完成がかかっているのだ。
 いつだったか、弦一郎が新聞部の取材で『好みの女性のタイプ』を聞かれ、『そんなことを聞くとはたるんどる!』などとやや逆ギレ気味な対応をしつつ、やけにご満悦気味だったことを思い出す。
 その時には、『弦一郎は相変わらず堅物だな』などと思ったものだが、後に、あのような反応の裏には、弦一郎にとって理想の女性像に並々ならぬ思い入れがあるということなのだろうと思い至った。
「そうだねえ、真田のところのお義姉さんはね……」
 精市はもったいをつけて、空などを見上げた。蓮二が強く興味を持っていることを知りながら、焦らしているのだ。
「真田の家で顔を合わせた時は、俺もよく遊んでもらったなあ。長い髪をした、そりゃあきれいでかわいらしいお姉さんだったよ。はきはきして明るくて、ちょっと気が強いから、悪さをするとすぐに叱られたりもしたけど、俺も大好きだった。最後に会ったのは小学3年生の頃だったか。お兄さんと結婚するんだって聞いて、嬉しくも寂しく思ったことを覚えてるなあ」
 言って、くすりと笑った。
「子供とはいえ、男なんだよね。お義姉さんに会うたび、遊んでもらって嬉しいし、それだけじゃなくて、やっぱりどきどきわくわくしてたよ。華奢だけど、なかなかにスタイルがよくて胸も大きい女らしい人だったし。真田は本当にあの人が大好きだったなあ。俺が遊びに行って俺の方がお義姉さんとたくさんしゃべったりすると、ひどく機嫌を悪くしたりしたっけ」
 とても想像のできない弦一郎のそんな様を思い浮かべようとして、蓮二はくくくと笑ってしまった。
「そのお兄さんとお義姉さんは結婚した後、しばらく家を出て暮らしていたんだけど、どのみちお兄さんは長男で家を継ぐことになるし一人息子の佐助くんも来年小学校に上がるからいい時期だって、今年の春に帰ってきたんだよ」
 それで、真田家では長男夫婦が住まう離れを本格的に改修していたというわけだ。
「そうか、弦一郎も叔父さんか」
 その言葉の響きがあまりにもぴったりで、二人して吹き出してしまった。
「それにしても……」
 ひとしきり笑って、蓮二も空を仰いだ。朝の空気が太陽の光で徐々に暖められてきている。いい秋晴れの一日になるだろう。
「ついに俺のデータノートの真田の章が完成を見る日が来たか」
「そうだね、ぜひとも柳の目で実物を確かめて、『真田弦一郎の好みのタイプ=義姉のような年上の美女(巨乳)』とデータノートに書き加えてくれ。そして、真田を完璧なムッツリキャラにしてやってくれ」
 涼しげな笑顔を浮かべる精市を、蓮二は冷静な表情で見返した。
「……いや、精市。俺はデータを完成に近づけたいだけであって、別に弦一郎をムッツリキャラにしたいわけでは……」
「なんだそうなのか、つまらないな。そのために今日は誘ったのに」
「精市……。俺たちはこれからU-17合宿に力を合わせて励もうという仲間なのだぞ」
「わかってるよ、冗談だ。今日は俺も久しぶりに帰ってきたお義姉さんに会いたかったしね。20代後半の麗しき人妻なんて、ときめかないか?」
「その発言もどうかと思うぞ、精市」
「まったく柳は、もう少し冗談を解する訓練をした方がいいよ。真田じゃあるまいし」
 冗談なのか本気なのかわからない精市の言葉遊びで道中の時間はあっという間に過ぎ、二人は真田邸に到着した。
 門の呼び鈴を鳴らすと、姿を現したのは軽く汗をかいている弦一郎だった。
「早かったな。時間をもてあましていたもので軽く素振りでもと思ったら、つい力が入ってしまってな」
 トレーニングウェアではない普段着でラケットを手にした弦一郎は二人を中に招き入れた。
「相変わらず熱心だな、弦一郎は」
「これからまだ合宿が控えているのだ、当然だろう」
「ふふ、真田は朝が早いから、もうそろそろお腹も減ってるんじゃないか? ほら、お土産だ。好物だろう?」
 精市は手にしていた立海まんじゅうの紙袋を持ち上げて見せた。
「おお、これは気が利くな。茶でも入れようか」
 弦一郎がその紙袋を受け取って口元をほころばせた瞬間、三人の足元にどこからともなくすばやい影が走り寄ってきた。

「おじさーん!」

 そしてその影は、弦一郎が手にした紙袋に向かってぴょんぴょんと飛び上がる。

「なになに? 今日はおじさんの友達のお兄ちゃんが遊びに来るんだったの? それ、お土産? お菓子?」

「……そうだ、立海まんじゅうだ、佐助くん。佐助くんは今日はピアノ教室なんじゃないのか?」

 真田弦一郎の甥っ子であろう、佐助と呼ばれる少年は興味しんしんといった風に精市と蓮二を見上げた。幼少の頃の蓮二を彷彿とさせる、おかっぱ頭の利発そうな少年だった。

「ピアノ教室までまだ時間あるから、ちょっとだけ一緒に遊んでいい? おじさん」
「……佐助くん、俺たちは遊びに集まったわけではなくてな……」
「まあまあ、いいじゃないか、真田。佐助くんも一緒に立海まんじゅう食べるかい?」
「食べる食べる! お兄ちゃん、名前なんていうの?」
「俺? 俺は幸村精市。こっちは柳蓮二っていうんだ」
「僕、真田佐助! うわー、今日はお兄ちゃんが二人も来て嬉しいなあ!」
「……佐助くん、どうしてこの二人がお兄ちゃんで、俺がおじさんなんだ?」
「だって、叔父さんじゃん、ゲンイチロー」
 精市と蓮二が笑いをこらえるのに必死でいると、弦一郎は苦虫を噛み潰したような顔のままついと濡れ縁にまんじゅうの紙袋を置いた。
「……茶を入れてくる。佐助くん、その間に手を洗って来いよ」
「はーい!」
 佐助は靴を放り出して濡れ縁に飛び上がり、部屋の中に駆けて行った。
「……生まれたときから叔父さんといった風格だな、真田は」
「そうだな、なかなか堂に入った叔父さんっぷりだ」
 二人はくくくと笑いながら濡れ縁に腰掛けた。

 弦一郎が持ってきてくれた日本茶をすすりながら、4人は立海まんじゅうを頬張った。
「うわー、おいしーい。立海ではこんな美味しいお菓子が売ってるんだー。僕も立海に行きたーい!」
 それはそれは美味しそうに、立海まんじゅうの2個目を手にする佐助を、蓮二はほほえましく見下ろす。
「佐助くんは、普段あまりお菓子を食べないのかい?」
「うん、家ではお菓子禁止なの」
 ちょっと悲しそうな顔をする佐助を、精市が驚いた顔で覗き込む。
「へえ、虫歯になるといけないから?」
「それもあるけど……」

「佐助ー!」

 その時、庭に響く女の声。
「あっ、お母さんだ!」
 お母さん、つまりは弦一郎の義姉か。蓮二が顔を上げて湯のみを置こうとした瞬間、弦一郎が濡れ縁に飛び上がった。
「佐助くん、早くまんじゅうを置け!」
「うん!」
「ああ、茶をもう一口飲んで、餡の香りを消すのだ!」
 その言葉に素直に従って茶を一口飲む佐助から、弦一郎は湯のみをひったくると、まんじゅうと茶の載った盆を手にし、一瞬逡巡した。
「柳、幸村! まんじゅうは持ったままでいいから、早く部屋に入れ!」
 二人はわけがわからないまま、濡れ縁から上がって障子の奥の弦一郎の部屋に押し込まれた。
 そのほんの一瞬後。

「佐助ー! 時間だから、ピアノ教室に行くわよー!」

 濡れ縁に一人残された佐助に近づく声。

「あ、お母さん、僕ここだよ」
「あら、こんなとこにいたのね。お祖父様の詰め将棋でも見てるかと思ったら」
「ゲンイチローと遊ぼうと思ってさ」
「まあまあ、ゲンイチローだなんて。ちゃんと叔父様と呼びなさいね」
「はーい」
「じゃ、ピアノ教室に行きましょうか」

 ぴょこんと濡れ縁から飛び降りた佐助は、すいと振り返って障子の隙間から覗いていた三人に軽く手を振った。

「……どうして隠れるのだ、弦一郎」

 少々動揺しながらも、蓮二は冷静に尋ねた。

「いや、まんじゅうを食べていただろう。佐助くん一人ならば痕跡を消せるが、われわれ全員で食べていたとなると、さすがに勘付かれる可能性が高い」
「真田家ではそんなにも厳格に糖分禁止なのか?」
 同じく動揺した精市の声が響いた。
「……精市、今目にした義姉の様から察することはできないか?」
 弦一郎は食べかけだった立海まんじゅうを平らげ、茶をすすった。
「お前が最後に義姉に会ったのは、確か佐助が生まれる前だったな。なにしろ義姉は佐助の出産後、20キロ以上体重が増えて、現在に至るまで誠意ダイエット中なのだそうだ。なのに、甘いものの好きな義姉の前でまんじゅうを食すなど、酷であろう? そういうわけで、我が家の不文律として、原則菓子は禁止なのだ。特に義姉の前ではな」
「……そうか、それで最近の弦一郎はいつも学校で食後にまんじゅうを」
「家では食えんからな」
 
 再び濡れ縁に出た3人の視線の先には、恰幅の良い明るい声の女性が佐助の手を引いて、赤い車に乗せるところだった。

「……そうか……。でも、お義姉さん、元気そうで安心したよ。嫁姑問題で苦労してたらかわいそうだな、と心配してたんだ」
「そういう気苦労とは無縁な性格なようだ」
「それではなかなか痩せまい……」
 おもわずそう口にした蓮二を、弦一郎はぎろっとにらむ。
「いや、健康ならば、何も無理に痩せずともよいのだ」
 弦一郎はそう言って、急須から茶をそそぐ。
「冷めてしまったな。茶を入れなおしてくる」
 急須を手にして立ち上がった弦一郎の後姿を眺めて、精市はふふ、と笑って息をついた。
「どうする、柳。真田の理想の女性像は思い出とともに遠くへ封印されたとするか、それとも、『好みのタイプ=義姉のような年上の美女(豊満)』に進化したと見るか?」
「……それはなんとも言えんな。この柳蓮二になかなかデータを取らせないとは、さすが、皇帝・真田弦一郎」
 そう、柳蓮二のデータノート真田の章は、まだまだ完成には遠いようだった。

(了)
2009.11.15




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