『橘さんって、九州時代は全国区のすごい選手だったんですよぉ!』
神尾くんが、いつも目をキラキラさせながらよく話してる。
1年生の子たちは、橘くんの話をする時、ほんっとに嬉しそうだ。
『俺たちにとって、神様みたいなひと』
森くんだったかな、眼をキラキラさせてぽろりとそんなことを言ってた。
大げさな!とも思うけど、橘くんが現れたことで、みんなのテニス人生が大きく変わってきてるんだもんね。
そんな彼が、この不動峰でただ一人立ち上がって、そして仲間を集めて。
そんなイチからのスタートで、また全国を目指そうとしてるんだって。
私にはまったくよくわからない、遠い世界のことだけれど、ただ、彼らのそんな思いがかなうといいなあとだけ、願う。
橘くんたちの思いは、今やっと輪郭ができてきたところ。
その日、例によって当番で保健室に行くと、ぶるると室内の寒さに震えてからエアコンを入れた。
今日は先生が出張だから、一日あまり人が出入りしなかったみたいで部屋の中が寒い。
12月に差し掛かり、寒さも本番近くなってきてる。
古いエアコンの音がゴーっとむなしく鳴り響く中で、外出入り口のノブが動いた。
「よぉ」
制服姿でマフラーをした橘くんだった。
「あれ、今日は一年の子たちは?」
彼が一人で来ていることがめずらしくて、私はつい尋ねた。
すると、彼は嬉しそうにフと笑う。
「今日は、さんに報告に来たんだ。新テニス部、無事に活動できそうだ」
シンプルな彼の言葉に、私は目を丸くした。
「えっ、顧問の先生とか決まったの? 部室もできたの?」
聞きたいことは沢山。
「顧問は、音楽の大山先生。部室は、以前からのテニス部と同じだ。校長先生や顧問の先生とも話し合ったんだが、新しくテニス部を作るっていうのは、やっぱり現実的じゃない。従来のテニス部を新体制でやっていこうってことになったんだ。あのトラブルがきっかけで、結局それまでの部員はまったく活動をしていないっていうことだったしな」
「へえ〜」
私は急展開に驚くしかない。
しかも、新顧問が、あの、ひょろっとしたちょっと暗そうな感じの音楽の先生とはねえ。
「音楽の大山先生、俺は絶対に顧問をしてくれるタイプじゃないと思ってたけど、自分で手を上げてくれたらしい。『僕はテニスの何も指導はできないけど、一人の大人として顧問を担当するということなら引き受けることができます』って言ってくれたんだ」
あの先生がそんな男くさいことを言うんだ、意外ー。
「さんが言ったとおりだったな」
「は?」
「いかにもテニスの指導をするような先生じゃない方が、望みがあるんじゃないかって」
そういえば、そんなような事言ったっけ。
「テニスの指導は俺がやりますって校長に言ったら、そうやって声をかける範囲を広げてくれたんだ。……さんのおかげだ」
「えっ、そんなたいしたもんじゃないよ、やめてやめて!」
橘くんの嬉しそうな誠実なまなざしに、私はあわててしまう。
彼は白い歯を見せて笑った。
「俺たち、だから堂々とみんなでテニス部の部室を使うことができるようになったんだ。短い間だけど、さんには本当に世話になったな、ありがとう」
あ、そっか!
部室を使えるようになったら、今までみたいに1年の子たちとトレーニング中に保健室で休憩したりしなくてもいいんだ。
「あ、うん、私は別に何もできなかったけど。でも、よかったね、ほんと!」
うんうんとうなずいて。
橘くんは保健室の外扉を開いて、外に立ったまま話すから、冷たい風が入ってくるけれどまったく気にならなかった。
そして、改めて思ったことを口にした
「橘くんて、ほんとみんなのリーダーって感じですごいね。神尾くんたち、本当に頼りにしてるみたいだし。九州の学校のテニス部、きっと橘くんみたいなリーダーがいなくなって、痛恨だったろうね」
私がそう言うと、橘くんの笑顔は一瞬姿を消して、彼は眼差しをふせた。
「……俺は、そんなんじゃなかと」
めったに聞かない彼の九州弁にどきりとした。
首に巻いたマフラーを少し緩めて、大きく息を吐く。相当に肺活量が大きいだろう彼の、白いそれは、大きなスピーチバルーン。
「俺は、ずっと自分が強くなることしか考えてなかった。東京の不動峰に来て、俺はもうテニスはしないつもりだったけれど、やっぱりこうやってテニスを始めて、ああテニスは一人じゃできないんだな、自分だけが強くなってもだめなんだなって、つくづく思い知ったんだ」
そう言うと、ニッと笑う。
「いろいろ苦労するだろうってことはわかってる。だけど、俺たちは行くぜ、全国に」
来年の全国大会。
部活動のことなんか、からっきしわからない私でも、それがどれだけ大変なことかだけは分かる。
何も言葉が出ないでいると、彼はその大きな掌を私の頭に一瞬置いて、すぐ離した。
「じゃな、ちょっとの間ありがとな。また、何かの時には世話になる」
そう言うと、マフラーを翻して去っていった。
橘くんの手って、すごく大きいな。
私の頭のてっぺんに、一瞬だけ残った感触。
ね。
きっと、こうなることは分かってた。
いつも懸命に動いてる彼は、いつまでも保健室でだらだらしてなんかいない。
すぐに前に進む。
だって、彼はいつも真剣勝負だもの。
そして、特急電車みたいに、私の目の前を通過していく。
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2012.6.9