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ニーベルングの指輪


第一幕


、早急に打ち合わせが必要だ。今夜いいか」

 氷帝学園の保健室で、忙しい実務をこなしている私の背後から声がする。
 確認せずとも、その声の主はわかっている。
 私は振り返って言った。

「それに関して、私の拒否権はあるんですか?」

 声の主、榊太郎は笑いもしない。
「一応、いつも選択肢は与えているはずだ」
 保健室の扉をあけて、中に入って来もせずにひとこと。
 私は軽くため息をつく。
「何時にお伺いすれば?」
「19時30分に来い」
 彼はそれだけを言うと、すっと扉を閉め去っていった。

 私の前職は、とある機関の諜報員だったわけだけれど、前職での最後の任務を機にこの氷帝学園中等部の養護教諭として勤務することになった。といっても、それは表の姿。
 本来の私の業務は、榊太郎の指示を受けて氷帝学園の平和を守るための諜報活動を行うというもの。つまり、榊太郎が私の実質上の雇用主。
 どうして転職したかって?
 そりゃ、前職よりも待遇が良くて福利厚生も充実していたから。
 女が動く理由なんて、そんなもの。
 でもね、榊太郎はなかなかに人使いが荒い。
 春からここに来ているけど、そもそも表の顔の養護教諭の業務だけでも大変だというのに、氷帝学園の良家の子女をつけねらう不届き者の殲滅からなにから、あらゆる業務が私に降りかかってくるのだ。
 転職したことが正解だったのかどうか、少々自信がなくなってきたこのごろ。しかも、もうすぐ夏休みなわけだけれど、思うようなバカンスを過ごすための休暇が取れるのかも疑わしい。
 そんな夏休みを控えた今時分だというのに、榊太郎の『早急に打ち合わせ』っていうのは、たいてい裏の業務における新しいミッションの前触れ。
 放課後、業務を締めて大きなため息をつきながら、私は氷帝学園を後にした。

****************

 19時30分に、来い。

 それは、榊太郎の自宅にってこと。
 私の本来の業務についての打ち合わせは、いつも彼の自宅で行う。なぜなら、そこが最もセキュリティの信頼できる場所のひとつだから。
 彼のマンションの来客用駐車場に私のエキシージを停めて、エレベーターで彼の自室のある階まで上がった。
 彼の部屋の扉は既にロックが解除されている。
 何も言わずに中に入ると、甘く香ばしい匂い。

「ああ、よく来たな。そこに飲み物が用意してあるから、座っていろ」

 そして、榊先生はキッチンで優雅に動きながら、私の方を見もせずに言う。
 テーブルには、まさに作りたてといった感じのロングのカクテルグラス。
 私の好きなアペリティフ、ティオペペとチンザノをソーダで割ったカクテルだ。
 彼の、こういうところが嫌いじゃない。
 押し付けがましくなく、スマートなもてなし。
 テーブルには既に野菜にローストビーフを添えたボリュームたっぷりのボウルが置いてあった。あとはメインディッシュを待つばかり。
 私がテーブルでアペリティフをいただいていると、榊先生はキッチンのカウンター越しに私に大皿をよこす。
「そっちに運んでくれ」
 今回の料理は、ホロホロ鳥のロースト根菜添え。
 香り高いボリュームたっぷりのメインに、私のテンションは上がる。


「それで、今回の任務の内容はどういったものでしょう?」
 辛口のシャンパンで唇を湿らせながら、私は早速本題に入った。
 こういう話はさっさと済ませるに限る。
「ああ、これだ」
 彼も、前置きもなく私に紙切れを示した。
 それは、何かの写しだった。つまり、コピー。
 テーブル越しにそれを手にし、ソースたっぷりのホロホロ鳥をほおばりながら私は内容に目を通した。

『最後のワルキューレにてフリッカのティアラは俺様がいただく Lupin The 3rd

 実にシンプルな内容だった。
 私はそのキーワードから頭の中で繰り返す。

 フリッカ
 ティアラ
 Lupin The  3rd

 出てきた結論はひとつ

「7月の、ニーベルングの指輪のことですか? 三年生のオペラ鑑賞会の演目の……」
 思わずうんざりとした声で言いながら、その紙切れを榊先生に返した。
 彼はそれを受け取るとテーブルの端に置き、口元を軽くぬぐった後シャンパンを一口飲んだ。
「ああ、その通り。今回三年生が鑑賞する『ニーベルングの指輪』は、ドイツの楽団の来日に合わせてある。その楽団の今回の公演では、主要登場人物のフリッカを演ずるメゾソプラノ歌手ベリンダ・モリスが劇中で身に着けるティアラが話題を呼んでいることを、も聞き及んでいるだろう」
 そう言いながら、優雅なしぐさでやわらかくローストされたホロホロ鳥をナイフとフォークでとりわけ、バルサミコを煮詰めたソースにつけてから口に運ぶ。
 私もゆっくりとローストビーフとクレソンを食して、美味なるシャンパンを味わった。
「……84.37カラットのブリリアンカットダイヤを配したティアラ、でしたっけ?」
 資料として目を通したことのある、そのまばゆい石の写真を頭に思い浮かべた。
「ああ。この楽団の『ニーベルングの指輪』は非常にオーソドックスでありながら名演の呼び名も高い。故に、わが校のオペラ鑑賞会に選んだわけだ。が、今回の公演ではさらに話題が盛り沢山だ。永らく芸術監督を務めてきたオットー・ベーレンスの最後の公演となるということ、そして、その最後の公演のためにと、彼のパトロンの一人から借り受けたダイヤを舞台衣装のティアラに配して公演をするというゴージャスな美談」
 榊先生は、表情も変えずに淡々と続ける。
 空になった私のフルートグラスに、榊先生はすかさず黄金の液体を注いでくれる。
「それに、世界に名だたる怪盗ルパン三世が窃盗の予告をしてきたということですね」
「そういうことだ」
 よくできました、というような穏やかな笑みを浮かべて、彼もまたシャンパンを一口。
「楽団の日本公演がまさに監督の最後の舞台で、日本公演のラストが我が氷帝学園のオペラ鑑賞会。『最後のワルキューレ』……ということは、この4日間を費やすオペラの二日目、『ワルキューレ』の舞台の日に盗みに入るということでしょうか」
 私はしごく尤もであろう結論を言葉にしてみた。
 上目遣いで榊先生を見てみると、彼は表情ひとつ変えない。
「その通り。ティアラを身に着けるフリッカが出演するのは、ワルキューレまでだからな」
 返事はきわめてシンプル。
 私は大きなため息をつきながら、香ばしいホロホロ鳥をもぐもぐと咀嚼する。
「この犯行予告は、当然日本の警視庁が把握しており、ルパン三世専任の捜査本部から内々に入手したものだ。今後、氷帝での公演以外でも『ニーベルングの指輪』の楽日までルパン三世対策本部の警備がつく」
 私は黙って榊先生の説明に耳を傾けた。
、お前はこの件に関してどう思う」
 唐突な問いに、私はちょいと肩をすくめてみせる。
「先生のことです。警察の無粋な警備が我が校のオペラ鑑賞会に関わってくることを是としておられないのでは?」
 榊先生は少々口元をほころばせた。
「当然警察の介入を拒む気はないが、我が校として独自の展開は必要だろう」
 つまり、それを私にやれということね。
 ため息をつきたいのを我慢して私は答えた。
「……わかりました。当日にただガードをするというだけではなく、前もって相手の動きを探ることが私の任務ということですね」
 彼は頷いて、また私のグラスにシャンパンを注いだ。
 後は、料理と美酒を楽しむだけ。
 私たちの打ち合わせは、たいがいあっさり終わる。
 残りの時間は、ゆっくりと寝室で過ごすのだ。
 シャンパンで軽く酔った後は、ピアノを奏でるように私に触れる榊先生の指に酔う。
 実に安易なすごし方だけれど、なかなかに悪くない。
 そんな、金曜の夜。


 朝、目を覚ますと隣はすでに空っぽ。
 私はもともと眠りの深い方だし、何しろ榊先生の寝室のベッドは広くて寝心地が良いのだ。ぐっすり寝てしまう。
 かすかに開いた扉の隙間から、キッチンでの物音が漏れてきた。
 彼が朝食の支度をしているのだろう。
 以前は彼のこういうところに少し戸惑ったけれど、何しろ大人の男には何にでも自分のやり方があるものだから、彼の家での彼なりもてなしには手出しをすることなく、甘んじることにしている。
 私は裸のままの体を起こしあくびをした後、髪をかきあげて伸びをした。

「起きたか」

 ちょうどその時、扉が開く。
 私はあわてて上掛けをたくし上げた。
「食事はどうする。ここで食べるか」
 私が頷くと、彼はしかたないというように軽く肩をすくめてみせてからキッチンに向かった。
 榊先生がトレイに乗せてきたのは、ハムとチーズのはさまったマフィンにしぼりたてのフレッシュグレープフルーツジュース。
 一口飲んで、新鮮な香りに思わずふうっと息をつく。
 寝室で過ごす時は、彼は仕事の話はしない。
 彼のそういうところが、気に入っている。
「このグレープフルーツジュース、シャンパンと割ったらきっと美味しいでしょうね」
 そんなことを言いながらマフィンをほおばっていると、榊先生は軽く笑った。
「試してみるか。クーラーにもう一本冷えている」
「本当に今飲みたくなってしまう」
 ひどい、と私が背中を小突いても動じない。
「……食べ終えたか?」
 私が頷いて口元を指でぬぐうと、私の手の空になったグラスを取り上げてトレイに乗せた。
「今度またシャンパンを開けた時に、グレープフルーツも絞ってやる」
 そう言うと、私の唇に軽く口付けてトレイを片付けた。
 思わず吐息が漏れてしまう。
 服を着て部屋を出ると、彼は既に食器類をディッシュウォッシャーに放り込んだ後。
、ところで今日は予定はあるか」
「え? ああ、特に決まってませんけれど……先生はテニス部の大会が近いから、部を見に行かれるのでは?」
 バスルームに行く途中で足を止めて、彼を見た。
「ああ、その通り。も暇なら学校へ来い。今日は警察のルパン三世対策本部の担当者が来る。話を聞いた後で打ち合わせをしよう」
 ああ、仕事の用件ね。
「ハイハイ、どうせ暇だし、行きますよ」
 ドライブにでもお誘いいただけるのかと思ったじゃないの。
 ため息とともにバスルームに向かうと、キッチンから出てきた榊先生の手が私の腕をつかむ。
「そうふてくされるな。全国大会が終わったらたっぷり休暇をやれる」
 私の心を読み取ったように言うと、そのまま私を抱き寄せてキス。
 さっきのようなあいさつみたいな軽いそれじゃなくて、ひどく官能的な。
 この人は、時々予想外なタイミングでこういったキスをするから困る。
 それも、とびきりに上手いから困る。
「……警察が来るのは午後からだ。が学校に出てくるのはゆっくりでいい。どうせこれから当分の間は忙しくなる」
 私の耳元でそんな不吉なことをささやきながら、再度舌をからめる。
 まるで体の自由を奪われたかのような私は、いつのまにかまたベッドへ逆戻り。


 明るい日差しの下での情事の後、まだ私がぼうっとしている中、榊先生はさっさと学校へ出かけていった。
 私はベッドの中で寝返りを打って、体に残る甘い余韻を振り払おうとする。どうせ私もあと2時間ほどしたら出て行かなければならない。
 そうすれば、あとはオペラ鑑賞会が終わるまではノンストップだ。
 がば、と体を起こし、バスルームへ飛び込んだ。


 氷帝学園へ車を走らせ、駐車場から校舎に向かう。暑い中、中学生たちはそれぞれの部活動に励んでいた。おー、元気だこと!
 そしてテニスコートの傍を通ると、相変わらずの活気。
 榊先生はいつもどおりのスーツ姿でいながらも汗ひとつかかず、コートの少年たちをクールなまなざしでチェックしている。
 傍らを通る私と目が合うと、軽く手を上げてみせた。
 今朝まで一緒に過ごしていた時の彼とはまるで違うけれど、なぜだか違和感はないから不思議。
 榊先生が今日わざわざ私に学校に来させた理由はわかっている。
 打ち合わせを、と言っていたけれど、ルパン三世対策本部の担当者を一度見ておけということだろう。
 一旦保健室に行ってから長白衣に着替えて、PCのスイッチを入れた。パスワードを入力して画面を切り替える。画面に映るのは来客用駐車場の映像。
 新しいウィンドウを開き、榊先生から送られてきている画像を開いた。
 くだんのルパン三世対策本部の担当者の写真だ。
 ICPOの銭形警部。
 無骨そうな50がらみの、いかにも仕事中毒の警官といった男。
 来客用駐車場の画面には、ちょうど白と黒のカラーリングの車が映りこむ。
 ナイスタイミングだ。
 私は保健室を出て、裏門の近くの来客用駐車場へと向かった。
 校舎から一番遠くのスペースに丁寧に駐車されたパトカーからは、私服の警官と、もう一人制服の警官の計二人が降りてきた。
 いかにも校内を点検中といった風に私が歩いていると、警官たちは案の定私の方へ足を向ける。
「……あのぅ、すいません、こちらの学校の先生、ですかな」
 声をかけてきたのは私服の方の警官、まさにさきほど見た写真の男。
 イメージよりも腰が低く丁寧だ。
「はい、中等部の養護教諭です」
 私はできるだけ愛想よく答える。
 すると、その警察官はひどく照れくさそうに姿勢を正した。
「自分はこの通り、警察からやってきました銭形警部と申します。このたび、ちょっとした打ち合わせでお伺いしたのですが、あのぅ、中等部の校長室というのはどのあたりですかな? こちらの学校はあまりに広く、少々見当がつきませんもので……」
 無骨そうでいて、ひどく丁寧なその警部に私は好感を抱いた。
 写真で見たイメージとは大分違う。
「よかったらご案内しましょうか?」
 そう申し出ると、彼はさらに背筋をしゃんと伸ばし帽子を手に取った。
「それは誠にありがたい。ぜひ、よろしくお願いします」
 隣の制服の警官ともども実直そうに頭を下げるのだった。
 私は二人を率いて中等部長の部屋へ向かった。
「……先生は週末でもこうやってお仕事ですかな?」
 廊下を歩きながら、銭形警部は気遣うように話しかけてくる。
 物腰や周囲を観察する様子を見ていると、警部は相当に切れ者でかつ身体能力も高いことが伺える。それでいて、こうやって一般人に威圧感を与えぬよう気遣うところが、細やかな日本人らしくて好ましかった。
「ほら、部活をやっている生徒も沢山いるでしょう? 何かあった時のために、時々出てくることがあるんです」
 私が言うと、彼は穏やかに微笑んだ。
「そうですか、大変なお仕事ですな」
「警部さんほどじゃありませんよ」
 あたりさわりのない会話をしながら、私は彼を観察し続ける。
 ジャケットの型崩れの仕方からすると、相当に銃の出し入れに慣れているみたい。ICPOというだけあって、日本の一般の警官よりも相当場数をこなしているのだろう。
 つまり、かなり手ごわそう。
 榊先生は、彼と完全に共同戦線を組んでやっていくのか、それとも大々的に警察が校内に入ることを好まず独自の展開でやっていくのか、どういう意向かまだわからない。
 もし、適当にあしらおうというのなら、かなり難しいかもね。
 そんなことを考えながら、中等部長の部屋の前。
「こちらです、どうぞお入りになってください。私はこれで」
 会釈をすると、警部はばっと私の方へ向き直った。
「お仕事中にどうもありがとうございました、助かりました!」
 そして、大げさなくらいに深々と頭を下げるのが、また彼らしかった。
「いえ、とんでもありません、それでは」
 その場を辞した私は保健室に戻る。
 そして、PCを開きチャンネルを合わせて映る画像は、先ほどの中等部長室。
 豪奢な応接ソファに、背筋を伸ばしたままの警部が腰を下ろしている姿がくっきりと映っていた。
 イヤホンを耳に入れる。
『……えらく豪華な校長室ですね、警部どの』
『何しろ、相当な金持ちの子女が通う学校らしいからな、この氷帝学園ってヤツぁ……』
 音声もばっちり拾えているようだ。
 扉が開く音声が聞こえたと同時に、二人の警官は視線を移す。
 お待たせいたしました、という声とともに画面に映りこむのは石神井中等部長と榊先生。
 画面の中ではそれぞれが自己紹介をする。
 警部たちは案の定少々面食らっているようだ。
 だって、警備についての打ち合わせで、どうして音楽教師が同席するのかって普通は疑問に思うだろう。中等部長が榊先生を学内の安全対策委員の担当者として説明をして、それでようやく警察の二人も納得したようだった。
 そして銭形警部たちが中等部長と榊先生に説明したのは、以下のとおりの内容。

 氷帝学園における『ニーベルングの指輪』公演の二日目に、ルパン三世が公演で用いられるダイヤを盗むという犯行予告を出している。そのため楽団に警察の警備がつくことになり、特に予告の出ている当日は現行犯でルパン三世を逮捕するべき所存。そのため、学園内の下調べなど協力を願いたい。

 まあ概ね昨夜榊先生から聞いていたとおりの内容。
 それにしても、学園内を警察官がおおっぴらにうろうろするなんて、なんとも榊先生がいやがりそうな話。だって、実質的に日々氷帝学園を完璧に警備しているのは、榊先生と跡部が内々に投入している自前のSPなわけだけれど、それが学生たちの目に触れないよう、どれだけ榊先生が注意しているか。学園内に無粋な警備が見えるというのは、彼の美学に激しく抵触するのだ。
 それに、あの警部の暑苦しさも、榊先生の好みからは著しく外れている。
 画面の中の榊先生はいつもどおり表情を大きく変えることはないが、案の定そのまなざしからは警部へ好感を持った様子は感じられなかった。
 警部たちは、氷帝学園からの警備に関わる全面的バックアップの返事を期待していたのか、榊先生のクールな対応に拍子抜けしたようだった。中等部長は、当然警備に関しては榊先生のイエスマンでしかない。
 
『申し出があったことに関して協力を拒否することはありませんが、ここはあくまで学校ですから常識の範囲内でお願いします』

 最後には榊先生のそんな言葉で締められた。
 やや表情を硬くした警部たちが、部屋を出て行く。
 中等部長と少し話をしてから、続いて榊先生も部屋を出た。
 そして、私の携帯が震える。
 通話ボタンを押すと、聞きなれたあの声。
『今から打ち合わせをする』
 その一言で、私はPCをログアウトして保健室を後にした。
 学内で打ち合わせを行う場所は決まっている。
 校舎の1階、廊下を進んだ最奥まで早足で歩いた。
 今日は土曜日で校舎に人気はないが、このあたりはもとより人通りがない。
 突き当たりの廊下の非常ベルのボタンにそっと指で触れると、上階につながる階段が動き、出入り口が現れる。
 私はそこからすいっと中に入り、同時にその出入り口は音も立てずに閉じた。
 その出入り口は地下への通路と通じている。
 一見して、一般的な学校施設ではないことがわかる、この地下。
 ここは、榊先生と跡部が増設した警備のための設備。
 つまり、生徒に目に付かないようSPが活動をしたり、学内をチェックするためのスペースだ。
 ちなみにここの場所のことは学校の関係者では、理事長と中等部長、そして跡部と榊先生と私しか知らない。
 地下通路を進んで、榊先生が待っているであろうミーティングルームに向かおうとしている時だった。
 人の気配を感じる。
 もちろん、ここには私や榊先生以外にもSPが出入りをする。が、私は上階の極秘通路からやってきたところで、つまりその私の背後に人の気配がするというのは異常事態なのだ。
 体を硬くして振り返ると、私は目を丸くした。

「よぉ、きれ〜なお嬢さんだコト。俺といいコトしない?」

 私がなかなか気づかなかった程のかすかな、それでいてぴりぴりとした気配なのに、ひどく人懐こい笑顔。が、その彫りの深い顔はなかなかに整っている。
 味気ない地下通路で派手に浮かび上がる赤いジャケットを、ひどく場違いに感じた。
 私が時間をかけて冷静に観察していたのかというと、当然そうではない。
 そんなことを考えていたのはほんの一瞬。
 だって次の瞬間、彼の手は私の背中にまわされ、その人懐こい笑顔を浮かべた顔は私のすぐ前。そして、その唇が私のそれをふさぐ。
 私の頬を押さえる片手からは、かすかにチリチリとした匂い。煙草の匂いなのか、火薬の匂いなのか。
 彼の行為は甘やかで、私に対する殺意は感じられなかった。
 それだけ彼の印象を収集すると、私は彼のキス自体を甘く感じてしまうその前に、対策を講じた。
 白衣のポケットに手をつっこみ、中から取り出したボールペンの先端を彼のヒップに軽く突き刺す。
 びくりと彼は一瞬飛び上がり、そして崩れ落ちた。
「……おいおいネーチャン、俺に何をした……」
 そして溶けるように地面に座り込んだ状態で、情けない声を出す。
「何をしたって、それは私の台詞」
 口元をぬぐいながら私はボールペンをノックして、針先を仕舞った。
「あ〜あ〜、だから言わんこっちゃない」
 次に浮かび上がってきた黒い影に私はまた驚く。もう一人いたの!
 先ほど仕舞ったボールペンの針先をもう一度あらわにすると、彼は大げさに両手を挙げて見せる。
 ダークスーツにボルサリーノ、あご髭をたくわえた長身の男だ。
「おいおい、カンベンしてくれよ。俺はこいつみてぇなマネはしねえ。ざまぁねえな、ルパンよ」
「うるへ〜、いい女を見たらすかさずキスをして惚れさせろってのが、俺の爺さんの遺言なんだ」
「お前ぇとは付き合い長ェが、そんな話は聞いたことねェな」
 おしゃべりはそこまで、と私が言うとさすがに二人は黙る。
 この二人が誰かわからないほどに私は鈍くはない。
「……ルパン三世に、次元大介、ね」
 私が言うと、大臀筋から吸収した薬のせいでまだ体の動きが自由にならないルパン三世は次元大介の手を借りながら立ち上がり、それでもにやりと笑った。
「かわいこちゃんに名前を知ってもらってるたぁ、光栄だぜ」
「……何をしに来たの」
 我ながら間抜けな質問だけど、実際彼らの真意がわからないのだから仕方がない。ついでに、今自分が取るべき行動についても確信が持てないのだ。
 だって、とにもかくにも誰かを呼んでこの二人を確保してもらいたいのだが、人を呼ぶ行動を取ってからSPが来るタイムラグに彼らがどういう行動に出るかがわからない。
 一見して彼らは銃を持っていることが分かるし、私では彼らにかなわないということも一目瞭然だ。かといって、彼らには明確な敵意がなかった。
 それが、私を余計に戸惑わせる。
「お〜、よくぞ聞いてくれた。話し合いに来たのさ。アンタのボスのところへ案内してくれ」
 次元大介にもたれかかった状態でいながらチャーミングな笑顔で、ルパンは言った。
 私のボス、というのが中等部長や理事長ではないということくらい、すぐに分かる。
 



 地下の警備スペースの中の、ミーティング用の部屋のソファにもたれながら、ルパン三世はほっとしたようなため息をもらす。薬の作用は徐々に薄れていることだろうが、まだもどかしそうだ。
 ルパン三世と次元大介を前にして、私の隣ではこれまたいつもと変わらない榊太郎。
 
「で、どういった話し合いをしたい、泥棒諸君」

 榊先生の冷ややかな物言いにも、当然彼らは動じる様子はない。
「あんたが榊太郎か、私立校の音楽教師ってなァ大忙しなんだな。音楽を教える以外にも、こんなところでもお仕事かい?」
「さっさと本題に入ったらどうだ」
 ルパン三世は軽く肩をすくめてみせる。
「単刀直入にスパッと行こうか。今日、銭形警部が来ただろう」
 彼の問いかけに、榊先生は黙って頷いた。
「それで、『ニーベルングの指輪』の公演での犯行予告をルパン三世がよこして来たってェ話をしたんだろ、あのとっつぁんは」
「その通り」
「言っとくが、あれァ……嘘だぜ」
 ルパンの言葉に私は思わず隣の榊先生の顔を見るけれど、彼のポーカーフェイスはかわらない。彼は黙ったまま。無駄な相槌を打つようなサービス精神を、榊太郎は持ち合わせていないのだ。
「正確には、確かにルパン三世の名前が入った予告状は届いてる。が、俺はそいつを出した覚えはねェし、そしてあのとっつあんも、あれが俺の出したモンじゃねェってことくらいわかってるのさ」
 榊先生の眉がかすかに動いた。
「何……?」
「ルパン三世のニセの予告状なんざ、世界中で毎日のように出てる。けどな、この俺をしつこく追い掛け回してる銭形警部だ、俺様の予告状のホンモノとニセモノなんざ一目瞭然だ。そして俺も、ニセの予告状にいちいちつきあってる暇もねェ」
「じゃあなぜ、今回はわざわざご足労いただいたのかな」
 ようやく質問をする。
 ルパン三世はいたずらっぽく笑った。
「俺もやっぱ人の子。何せ、ニセの予告状とはいえ、今回は獲物がデカすぎる。平たく言えば、俺様も興味を持っちまったってワケよ。かつ、俺様の名を騙ったどこかの誰かが、まんまとあのダイヤを手に入れるなんざ、ちょいと面白くねェだろ。というわけで、様子を伺いに来たってとこさ」
「それで、ここまで侵入して私の前に姿を現すことに意味はあるのか」
 榊先生のコメントは取り付く島もない。
「まあな、そこで話し合いよ。いいか、さっきも言ったように銭形警部はあれがニセの予告状だっていうことは重々承知している。それなのに、俺の予告状だとして動いてるって事ァ、つまりこれを機に俺があの獲物に興味を持つだろうってことを察してだ。その上で、俺たちをおびき出そうとしてやがる」
 ようやく体がしゃきっとしてきたらしいルパンは上体を起こして、不敵に榊先生を見た。
「この学校とオペラ鑑賞会を利用して、俺を逮捕するステージにしようとしてるって事さ。わかるだろ?」
 榊先生はフッとかすかに笑った。
「勿論、それはわかる。が、君が、わざと私に警部への反感を持たせるような言い回しをしているのもわかるがな」
 榊先生がそう言うと、ルパンは苦笑い。
「ま、それは言いっこナシよ。が、とにかく警部が自分の知ってるコトをアンタに内緒にして、自分のやりたいようにやろうとしてるってのは確かだ。アンタはそういうの、許せる方じゃねェだろ?」
「単刀直入にと言いながら、泥棒は話が長いな。で、どうしたい」
 ルパン三世はニッと笑う。
「俺は、どこのどいつが俺様の名を騙ってまんまとダイヤを手に入れようとしてるのかを知りたい。そいつの邪魔をするために、ちょいとこの学園で動く便宜をはかっちゃくれねェかなって話さ」
 なに都合のいいことを、と私があきれていると、榊先生の意外な返答。
「なるほどな。では、その便宜をはかるにあたっては、こちらも条件を提示させていただこうか」
「ほう?」
 ルパンが身を乗り出す。
「貴殿の名を騙ったふとどきものの仕事の首尾を邪魔し、かつダイヤが確実に警備の手に戻ると約束してもらいたい」
「ナニッ」
 声を上げるのは、泥棒二人同時。
 榊先生は面白そうに口元をほころばせる。
「当たり前だろう。銭形警部にアドバンテージを得て、騙りの仕事を邪魔した挙句、かつ警部の裏をかいてダイヤを手に入れようというのは虫がよすぎる話だ」
「……ダイヤがどうなろうと、アンタにゃ関係ねぇだろうが」
 次元大介が不機嫌そうに言う。
「この氷帝学園でそういった見苦しい行為が行われることを是としないのでね。君たちのプライオリティーは、騙りをこらしめて己のプライドを守るということにあるのか、それともダイヤを手に入れることにあるのか、どちらだ? こちらの条件が飲めないというのなら、ここでうちのSPたちに取り押さえさせ、先ほどの銭形警部に差し出すのもいい」
 榊先生の口上に、ルパン三世は再度ソファに身体を沈めた。
「ま、しょうがね。この件をほっといて、ニセモノがダイヤを手に入れるのは面白くねェ。が、正面切っていっちょ噛んで、あの銭形とやりあうのも面倒だ」
 次元大介がぎょっとした顔をするにも構うことなく彼が言うと、榊先生はかるく頷いた。
「いいだろう、交渉は成立だ。後のことはそのに任せる。行ってよし」
 いつものように軽く片手を掲げた。
 大げさなため息をついた次元大介が、うんざりといった様子でボルサリーノを押さえ立ち上がった。
「行くぜ、ルパン。立てるか?」
 ルパン三世に手を貸そうとする。
「……ところで、君はに何をしてそんな様になった?」
 榊先生の問いに、次元大介がニヤリと口を開く。
「ああ、このスケベ野郎がな……」
 私は立ち上がって二人を扉の方へ促す。
「学外に通じる出口まで案内するから来て」
 早足で廊下に出ると、二人は慌ててついてきた。
「……アンタはあの榊太郎の飼い猫に間違いねェって俺が言ってんのに、ルパンときたら、『いやァ、ただの美人の保健室のセンセーかもしんねぇぜ、そんな素人サンは巻き込んじゃいけねえ。俺が確認する』なんて言って、あんなコトをしてこのザマだ」
 廊下を歩きながら、次元大介は少々いやみったらしい笑みを浮かべて言った。
「ただの保健室のセンセーが、こんな地下通路に生体認証で出入りするわけねェだろ。なァ、仔猫ちゃん」
 私は立ち止まって彼を見上げた。
「飼い猫だのなんだの、いちいちカンに触る言い方しないで。髭なんか生やしてるクセに中学生と変わらないのね。私も仕事でやってるの。あなた方をこうやって案内するのも仕事」
 次元大介は帽子の下からムッとした顔で私を見返す。
「おいおいおい〜」
 私と次元の間を歩いていたルパンが急に両手を広げる。
「これからお互い協力しあう間柄じゃないよ〜、仲良くやろうぜ〜」
「ケッ! ダイヤを手に入れるてぇならまだしも、やってられるかよ! ヨカッタなルパン、今回は不二子の奴に黙って来て」
 嫌味ったらしく言う次元大介。
 今回の運びに気が進まないのは、私も次元大介と同じ。
 私は雇用主である榊太郎の方針に従うしかないわけだけれど、正直なところ個人的にはあの実直そうな警部の方に協力する方がずっとやりがいのある仕事に思える。が、こればかりは仕方がない。
 私は二人と一緒に通路を歩き、西門に通じる出入り口の下まで来た。
「ここを上がれば校舎の外よ。目立たないように学外に出てちょうだい」
「サンキュー、ちゃん。じゃ、ま〜たすぐにデートに誘うからいい子にして待ってな」
 私は何も言わずに、生体認証のキーで出入り口を開いた。
 ノーサンキュー! と心で叫びながら。
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