● ウィルス --- (4)満身創痍 ●

「いやー、お見舞いに買って行ったエッグタルトがめちゃ旨くてさ」
 今年に入ってから、やけに私に近づいて来る丸井ブン太が言った。
 校庭の花壇のところでしゃがみこんだ彼は、私の実験場のいちごの苗をじっくり観察している。去年に植え付けた苺。
 彼が私に急接近している理由は明確である。
 今回初挑戦の苺と、今年の夏にいよいよ収穫するであろうブルーベリーだ。
 まったく、テニス部の奴ときたら、真田を筆頭になんて露骨に作物目当てばかりなんだろうか。
「エッグタルトはいいけどさ、幸村はどうだったのよ」
 今は丸井が食べたいような物は何もないよ、しっしっ、とばかりに私が追いやろうとしても彼はまったくこたえない。
「うん、思ったより元気そうだったぜぃ。来週には退院するって」
「へえ、そうなんだ」
 意外に早い展開。
「退院したら、しばらく自宅療養だってさ。すぐには学校には来れねーみたいだ」
「ああ、そっか」
 そういえば真田もそんな事言ってたなあ。
「来月くらいには学校来れるようになるかな」
 来月にはきっとクリスマスローズが花を開く。それは見たいだろうな、幸村も。
「そうだな、来月はバレンタインだし、幸村くん結構がめついからチョコの回収に来るんじゃねー?」
 なんて言い草だ、丸井。ま、当たらずとも遠からずだけど。
 彼は立ち上がって伸びをした。
「幸村くん、部長になったし、今年優勝すると俺たちが立海に入学して三連覇なんだぜぃ。きっと寝てらんなくて、すぐ学校来るって」
 なんか丸井が言うと、本当にすぐに実現しそうで、私は思わず笑った。

* ********

 2月に入って幸村が退院をしたと聞いた。
 私は結局、入院中にお見舞いに行かなかった。
 テニス部の皆と行くのも前に言った理由で躊躇してしまうし、じゃあ一人で行くかというと、それもためらわれる。
 またすぐ学校で会えるしね、と思いながら過ごしていると、日々はあっという間に過ぎて、幸村のクリスマスローズはうつむきながらもその可憐な花をどんどん開花させていった。
 小首をかしげたその控えめでかわいらしい花は、まったく幸村のイメージではないのだけど。
 その日の朝、校庭の花壇と実験場の世話を終えて、屋上庭園に向かう。
 屋上庭園でも、幸村が工夫をして配置した冬咲きの花が、控えめながらも暖かい彩りを添えていた。ご主人が不在ながらも、けなげに花を披露しているのだ。
 ピンクのエリカをそっとなでてから、私はふと人の気配に気づく。
 振り返ると、そこには制服姿で学校指定のマフラーをした幸村が立っていた。
 立ち上がって目を見開いた私は、一瞬言葉が出ない。
「久しぶりだね」
 まさに久しぶりに耳にする幸村の声は、あいかわらず甘い。
「……びっくりした!」
 まずは思った通りのことを口にした。
 だって、本当にびっくりしたんだもの。
「もう学校に出てきていいの?」
 私が尋ねると、彼は笑うだけ。
「女の子たちから、バレンタインのチョコをもらいに来た。今年は、 もちゃんと用意してあるんだろうね?」
 そういえば、今日はバレンタインか! 丸井が言ってたことが現実になった!
「だって、今日学校に来るって知らなかったもん。そんなの用意してないよ」
「知ってても、用意する気なんかないくせに」
 彼は言いながら笑った。それほど意地悪な言い方じゃなくて、いつもの憎まれ口だ。私はなんだかほっとして、つられて笑う。
「当たり前じゃん」
 幸村は花壇に近づいて、愛しそうにクリスマスローズの花を見つめた。
 うつむいて花をみつめる幸村のその姿はまさにクリスマスローズみたいだ、なんてクサいことを思ってしまって、私はちょっと恥ずかしくなる。
「ま、チョコをもらいに来たってのは冗談だけど。学校も突然休んじゃったし、部活のこともあるから、とりあえずは体調が整ったら一度は来たかったんだ」
 一度は?
「ん? ってことは、また休まないといけないの?」
 幸村の隣にしゃがみこんで彼に尋ねる。
 彼は花を見ながら、続けた。
「そうだな、今は点滴で使ってた薬を、内服で続けているからね。しばらく自宅療養をすることになってる。それで検査をして、状態によってはまた入院をして、っていう予定らしいよ」
 幸村はまるで他人のことのようにさらりと言う。
「……治るまで長くかかるの?」
 言ってから、後悔する。だって、もしかしたら、怖い返事が返ってくるのかもしれない。
「さあ、わからないな。薬物治療の効果次第では、このまま良くなるかもしれないし、場合によっては手術を受けることになるかもしれない」
「手術っ!?」
 思わず声を上げてしまった。
 じゃあ、今年の夏の全国大会は?
「学校も、多分しばらく来れないだろうな。入院をしなかったとしても、自宅療養をしていないといけないらしい」
 目の前の幸村は、去年最後にここで会った時とさして変わったようには見えない。だから、『病気』とか『入院』とか『手術』なんて言われても、どうにもピンと来ない。
 でも、それらの言葉はまるで正体不明の不吉な呪いのようで、呪いにかかった幸村をどう扱ったらいいのか、戸惑ってしまう。
「夏には体を治して戻ってきたいと思ってるよ。なにしろ、全国大会の三連覇がかかってるし、ブルーベリーも収穫しないといけないからね」
 幸村は穏やかに笑って私を見ると、ブルーベリーの鉢の上の水苔に触れてその湿気を確かめた。
 私は突然に柳生くんの言葉を思い出した。
 幸村の治療に使ってる薬は、副作用で体の抵抗力を弱めてしまうんだって話。
「あ、幸村!」
 ついつい声を上げた。
「花壇、ちゃんと私が世話をするから、いいよ。やっとくし」
 幸村はそういうの、触らない方がいいんじゃない、と思ってあせってしまう。



 急に幸村の声が厳しくなった。
 しゃがんだままの彼の顔を見上げると、ひどく鋭い眼。

「俺を、終りかけてるかわいそうな奴みたいに扱うのはやめろ」

 彼の決して大きくない声は、静かに響いた。

「俺は戦線離脱したわけじゃない」

 幸村はそう言って、首に巻いていたマフラーを放り投げると、私の肩をつかんだ。
 次の瞬間、幸村の顔が近づいたと思うと私の唇は彼のそれで覆われた。
 火傷しそうに熱いと感じたものは、幸村の舌だった。
 地球がひっくりかえる。
 私はそのまま、屋上のコンクリートに仰向けにされて、私の上に覆いかぶさる幸村は、キスを続けた。
 こういった場合の正しい女子中学生の対処としては、『ナニスルノヨ!』と叫んで彼を押しのけることだと、はっと気づいた頃には幸村は私から体を離してじっと見下ろしていた。
「びっくりした。何するの」
 なんだか間の悪い私の台詞は、力なく空に溶けていく。

「そう、俺は手術をすることになるかもしれない。何だったら、もしかしたら死ぬのかもしれない。もし俺が死んだら、 は俺がキスをした最初で最後の女の子だ。そして、ここで俺が を抱いたら、俺の最初で最後の女の子だ。ねえ、俺の、最初で最後の女の子になるっていうのはどう?」

 突拍子もない彼の言葉は、ひどく甘いのに痛い。
「なによ、それ!」
 私が体を起こして叫ぶのと、幸村が立ち上がるのは同時だった。
 幸村は制服についたコンクリートの白い粉を払いながら、あの甘い笑顔を私に向ける。
「冗談だよ。じゃあ、俺のいない間、花壇の世話を頼む」
 それだけを言うとマフラーを拾い上げて首に巻いた。
 幸村と初めてここで会った時のことを思い出す。
 私の心臓は、あの時以上に激しく働いてるし、あの時以上に頭がくらくらする。
「ああ、そうだ、それと」
 マフラーを翻して幸村はふりかえった。
「俺が入院していたり自宅療養をしていても、 は見舞いに来るな」
「は?」
 これまた唐突な命令に私がまぬけな声を出すと、彼はくるりと私に背を向けて、何も答えなかった。
 地面に座り込んだままの私は幸村が去ってもしばらく立ち上がることができない。
 なに、なに、何!?
 さっきまでのことを頭でリプレイする。
 幸村、なんなの!
 どこからつっこんでいいのか、わからないよ!
 冗談て、いったいどこからどこまでが冗談なの。
 キスが初めてってとこが冗談? それとも、私にキスしたこと自体が冗談? 死ぬかもってとこが冗談? いや、そもそも全部が冗談っていうんじゃなきゃ、どうリアクションしていいのか、わからない。
 だけどだけど。

 私の上にのっかった幸村の体の重み。
 あの、やけに熱い唇に舌。
 私をじっと見るあの眼。
 
 あんな真剣な幸村は初めてだった。
 私の体と脳に生々しく残る幸村の熱を、いったいどう処理したらいいのか、わからない。
 屋上庭園に座り込んだまま、どれだけ時間が経っただろう。
 始業のベルが鳴っても立ち上がれなくて、いつのまにか身も心も満身創痍な私は、久しぶりに会った幸村があいかわらずひどい奴だっていうことだけはしっかり再認識した。

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